水子を持ったことのある女性の気持ちは、次子が生まれたとき、死なしてしまったあの子のぶんまでも!と無意識的に可愛がり、過保護になってしまう傾向が見られる。すると、次子は母親の愛情を過分に受けることになるが、それはさらに次子が生まれるまでの期間でしかない。
過分な愛情を受けた子が次子に母親を取られるとき、退行現象を示すことが有るのはよく知られている。しかし、受けた愛情が大きければ大きいほど、次子が生まれたときに覚えざるを得ない寂寞感は大きなもので、赤ちゃんの世話で忙しく、夫との関係もあって、今までとおりに可愛がることは不可能に近い。退行がひどくなると、手を焼くようになり、ひどい場合には虐待に至ったりする。つまり「若気の至り」ということで、そん場限りのことでなく、一生の問題として引きずってしまうことがあるのだ。
性体験の低年齢化は、このようなことに注意をすべきであると考えられる。男は、女がこのようなリスクを背負うことをよく認識し、女を大切にする必要があるといえる。女もまた、やたらとリスクを背負うことにならないように、自分を大切にする必要があるといえる。
性体験の低年齢化は、親子関係が希薄であるときに発生するようだ。自分の娘に一生の難儀を背負わさないためには、親もまたこのことをよく認識する必要があるといえよう。
親子関係が幼少の頃から希薄であるとき、特に早くから保育園に預けられたりすると、その子にとっての心理的な「母」は保育士になってしまうことがある。そして保育園が家庭になってしまい、実際の「家」は、いわば、個人を対象にした保育園のようなものになってしまう。すると心理的には、家庭と社会の逆転現象が発生する。
逆転現象の良い例は、電車内での化粧、公共の場での飲み食い、といったことだろう。社会の場がまるで自分が気楽にできる家庭のようになってしまう。果たしてこれでよいのかどうか、よく考えるべきであろう。
さらに、親子関係が希薄な中では、保育園で性器いじりをする子が良く見られる。これは親に甘えることにより得られる心理的快感を性的快感で補償している行為であると考えられる。希薄な親子関係は性的な活動を活発にするようで、これは特に女子がセックスアピール(透けてみえる下着、超ミニスカなど)をする行為と無縁であるとはいえない。
高度文明化社会における人間の行動は、これから試行錯誤を伴って色々と変化していくであろうけれども、家族関係のありようの再考が求められているといえるのではないだろうか。
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