昨今の社会問題に対応するがごとく大学では心理学関係の学科が増加を見ている。しかし、教授されるのは、大部分が西洋の心理学の理論と実践である。人間の心を扱う心理学は文化の影響を受ける学問である。ここに「和魂洋才」の精神を活かさねばどうなるか? これでは、よく勉強する臨床家ほど、流暢な日本語をしゃべる外国人に見てもらっているような印象を患者は受けてしまうであろう。果たしてそれで良いのだろうか? 良いはずはあるまい。
僕は、四半世紀にわたって、このような疑問を持ちつつ和魂洋才の精神を活かすべく心理学と家族療法の研究を行ってきた。当初はかなり異端視されたものであったが、ここ数年前からは、事情が明らかに異なってきた。そのような機運を感じることができるようになってきたのだ。
今年の九月に日本人間性心理学会が埼玉県越谷市の文教大学で行われる。そこでは「精神分析の日本化とその意義」と題する自主企画シンポジウムが催されるまでに至ったのである。企画者・話題提供者を含めて、七人が北海道から沖縄、それにアメリカから参加することになった。何と喜ばしいことか。
翻って、沖縄の事情を考えてみよう。文化が表面的には本土とは異なることは誰しもが納得しよう。すると、ここには「琉魂和才」「琉魂洋才」の精神が適用されねばならないことがうなづけよう。古代大和語を残す沖縄語で語られる精神の世界を基本として物事を考えていくとき、それは日本人の心の源流に触れることでもあり、決して、一微小地域の問題ではなくなるのだ。
実は人間性心理学の提唱者であるアブラハム・マズローは、これまでの心理学とは異なり、健康人の心理を扱った最初の人である。彼の心理学の基本は「基本的欲求」という概念である。これは、それがなければ病気になる、それがあれば病気を防ぐ、それを取り戻せば病気が治る、といった性質を持つものである。この性質(定義)は、沖縄語で言うマブイと全く同じである。ここに、西洋心理学と日本(沖縄)文化との接点を見ることができる。結果、マズローの理論は「和魂洋才」「琉魂洋才」の精神が活かされ、臨床により大きく寄与することができるようになる。(マズロー心理学は、心理臨床を扱う方法論としては適切ではない。しかし、退行、越行、代理欲求、甘え論との組み合わせといったことにより、まぶい分析学として生まれ変わったといってよい)。
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