共依存と甘やかしには密接な関係があるようだ。「共依存」というのは、TAつまり交流分析では共生関係と呼ばれたりするが、いずれにせよ、ともに(互いに)依存しあっている関係である、とされるものだ。ところが、この共依存というのは悪いことである、というように考えられている。例えば、
共依存というサイトを見てみると、
(引用開始)
共依存の家庭のことを「機能不全家庭」ということもあります。
共依存の家庭に育って、「生きにくさ」を感じ、それを自覚しながらも未来に向かって生きていこうとする人たちのことをAC、
アダルトチルドレン(アダルトチャイルド)と言うことがあります。というか、本人たちが自分たちのこと を、そう呼ぶことがあります。
(引用終了)
とある。まさに、共依存=悪、である。
しかし、良く考えても見よ。人間は(というか他の動物も)他者に依存して生きる生物なのである。依存を悪とされてはどうしようもない。これは"心理学"として未熟である証拠だろう。西洋心理学では、悪いものは切り取ってしまえ、といった感覚があるようだ。あるいは、悪いことから脱却せよと。しかし、これは思い込みによる無駄な足掻きというものだ。
まず認識しよう。人間はともに(互いに)依存しあって生きるものである。これが真実の人間の姿である。
従来の思考法による共依存、つまり悪いことは、ともに依存している状態に苦痛を生じることがあるからだ。そこで、病気の定義として、
【定義:病気】
本人/本人と生計を同一にする者が、(専門家としての)第三者の支援を必要とするほどに心身の不調を訴える状態
とすると、そのことは良くわかる。病的でない共依存関係を、まぶい分析学では「正しい共依存」という。ところで、共依存は甘やかしということと深い関係があるように見える。しかし、もともと「甘やかし」という言葉は日本語に特有なものであるから、共依存を扱った原論文に示されていることではない。先にあげた共依存のサイトには、次のようにある。ここで「甘やかし」についての間違いが御他聞にもあるので指摘しておくこととする。
(引用開始)
○甘やかし
甘やかしは、子どもが自分の責任でやれることを、親が手を回してしてやることです。成長していく中で、子どもは自分の責任でやれるこ とがだんだんと増えてくるのですが、子どもができることまでやってやるのです。
間違いだ。それは「甘えさせる」ということだ。甘やかしは、本音の要求(基本的欲求)
に応えるのではなく、見かけの要求(代理欲求)に応えるものだ。
赤ん坊が、ミルクや乳を飲ませてもらうのは健康な依存です。小学3年生の子が、全く料理ができなくて、全て作ってもらって、果てには 手伝いもせずに上げ膳据え膳で食べていたら、不健康な依存です。小学校3年にもなれば、簡単な料理くらいできます。
では、亭主が妻にご飯を作ってもらうのは?(笑)
勝手の殿様は上げ膳据え膳であったが、それは不健康か?
小学校で、事情があるならともかく、自分で作ってご飯を食べてる
という状態のほうがおかしいのではないか?
多くの場合、「子どもを養育すること」に依存する親が「甘やかし」をします。
「子供を養育することに依存」する親がいるからこそ、子捨てにならないのだ。
依存した親は、自分がしてやれることが少なくなっていくことに不安を覚えます。子どもとの関係の中で、「子どもに何かしてやること」に依存しているから です。だから、子どもにやらせた方が良いことまで、親の方から手を伸ばして、先にやってしまいます。
何か病的な親を観察した結果の意見ではなかろうか。依存は
悪いことではない。しかし、正しく依存することが重要だ。
親の雰囲気としては、一見優しいのですが、親は子どものためを思って行動しているのではなくて、自分の不安をうち消すために子どもを利用しているだけで す。
それは病的な親だ(笑)
甘やかされた子どもは、依存から抜け出すことが困難になります。多くの場合、大人になってからも、共に依存してくれる相手を捜しま す。大人として当然できることをしてもらったり、過去の親の態度を取り込んで、相手を甘やかしたりします。多くの場合、甘やかされた子どもが、甘やかされ たいパートナーや甘やかすパートナーになり、さらには甘やかす親になるのです。
ここの認識は問題ないと思う。ただ、甘えさせるということと甘やかしということ
を混同している。
これが共依存の世代間伝播です。
世代間伝播とは、まぶい分析学で言う「継降」のことである。
(引用終了)
PR