2007年(平成19年)7月16日:初出し
2008年(平成20年)4月2日(水):旧ブログから移動
------------------------------------------------------------------
祖先祭祀文化と精神分析の研究をしていると、少なからず根源的と思われる疑問が残るものがある。それは、世の中の現象を二項対立的に捉えようとしている基本観念が随所に見られるということだ。これは・・・正しいのだろうか?
タイトルに示したことも一例である。宗教などは特に、なにやら崇高なもの、崇高な存在を仮定し、修行や功徳を積んで始めてそのような状態になれるとしたりする。最近、こういうことに強い胡散臭さを感じてならない。すべては金儲けにつながっているだけのことなのではないか・・・
『神』なるものを、その存在なしには人間が生存し得ないほどに絶大な影響力を有する生物もしくは非生物、と定義すると、次のようなことがわかる。
例えば、偉い人(何をもって偉いと言うのかは不明であるが(笑))がいて、多くの人が生き神、生き仏などとして崇敬され、彼らの死後には神や仏に祭り上げたりされる。それらの教えを学んだ人とそうでない人とでは、貴賎などの区別が生じ、やがては差別に発展していったりする。
ある物事を悟った人や優れた医師などがいたとする。なるほど、彼らなしには、心身の苦悩を覚える人達は救われないであろうし、まさに、先に述べたような意味でも彼らは、そういう知識や技術を持たない人達と比較すれば、『神』に近い存在であり、死後は『神』に祭り上げられたりしても不思議ではない。
しかし、そのような神もしくは神に近い人達も、自分が教える相手、治療する相手が存在して始めて自己存在の意義を覚えるはずだ。逆に言えば、彼らが彼らにとっては『神』もしくは『神に近い存在』なのである。われわれが崇め奉る存在も、われわれの存在無しには存在し得ないのである。結局はお互いさまなのである。
医者は患者がいてはじめて医者たりえるし、
教師は生徒がいてはじめて教師たりえるし、
教祖は信徒がいてはじめて教祖たりえるし、
警察は犯罪が存在してはじめて警察たりえるし、
・・・
ハレはケがあってはじめてハレたりえるし、
浄土は穢土があってはじめて浄土たりえるし、
善は悪があってはじめて善たりえるし、
・・・
こんなことを考えると、この世はずべてが神であることになる・・・。すべてが神であるのなら、神を神と呼ぶ必然性はもはや必要ない。もともと神なんて存在しないのであるといってよいものだ。それは・・・、人間の欲望の産物なのであろう・・・