ネットサーフィンをしていると、京都府教育委員会認定のフリースクール
知誠館というところのサイトがあり、その中に、
「甘えの構造」と題するエッセイがあった。残念ながら、ご他聞に漏れず、「甘え」の解釈に間違いがあった。ここに簡単に記しておこう。
(引用開始)
「甘えの構造」
昭和46年に出版された「甘えの構造」という本があります。精神科医で心理学者でもある土居健郎が日本社会をその心理的構造面だけでなく文化論的 側面からも論述したこの本は、当時大変なベストセラーになりました。この本によると日本社会が持つ「甘えの構造」は、大変多岐にわたっていて、しかもそれ は農耕社会であった大昔の時代から継承されている日本文化の特徴であり一つの美徳として肯定的に述べられていました。
それから約30年がたった現代、今の子どもたちの考え方や生き方の中に大きな「甘えの構造」が問題として横たわっているように思います。この30 年間の間に私たちの生活は物質的に非常に豊かになりました。前半の15年間は高度経済成長の最中です。今の子どもたちは、幼い頃から様々な物質的な要求を 満たされて育ってきました。そしてさらに、90年代に入って急速に発展した情報化の波があります。今や子どもたちの周りには、様々な情報が簡単に手に入る 環境があるのです。
私の子どもの頃は、誰しもが我慢を強いられていました。欲しい物は努力しないと手に入らなかった時代でした。情報だって同じです。自分たちで図書 館に行って、難しい本の中から必要な情報を探さなければなりません。つまり何かを手に入れるためには、頑張らないといけなかったのです。頑張ることは生き ていくための基本原理だったのです。しかし、与えられることが当たり前になった子どもたちは、頑張ることを軽視します。時には頑張ることは、愚かなことだ とシニカルに捉えることさえあるのです。豊かな時代は、私たちに新たな「甘えの構造」をもたらしました。そしてこの新しい「甘えの構造」が子どものたくま しさを失わせていることを忘れてはなりません。
(引用終了)
第二パラグラフまでは、状況の記述です。問題はないと言えましょう。しかし、第三パラグラフは、ちょっと問題です。要は、昔は我慢しなければならなかったし、それに堪えてきた我々は頑張ることができるが、今の子供達はそれが出来ない、ということを、ある意味嘆いている。これは「今の若者は!」と叱る?ということでもあります。実は、60年生きてきて気づいたのですが、どの世代でも自分達より下の世代をそのような感覚で見てしまう、という、一般的な人間の性質のようなものであることに気づきました。決して下の世代が問題なのではないのです。むしろ我々の「物の見方」が問題なのであることに気づく必要があると言えるでしょう。「甘え理論の誤用」といっても過言でないのです。
これは「文明の発達」に原因があると言えます。文明の発達は、我々に便利さをもたらします。この便利さというのは、「甘える」ことが出来るということと同じです。つまり、下の世代ほど、甘えることが出来る機会が多くなっているわけです。
例えば、漫画やゲームもそれほどなかった世代は、上記のエッセイが言うように、我慢していた、のではありません。それほど関心を向けなかったというのが正解ではないでしょうか。しかし、今では、漫画やゲームを知らないと、仲間はずれになってしまうほどに、一般化しているといってよいでしょう。で、大切なことは、漫画やゲームを自由に楽しむことが出来るようになっているでしょうか? いや、そうではないでしょう。時間制限をするとか、色々な手段が講じられて、結局は、子供達は、甘えたくても甘えられない、という状況に追い込まれていると言えましょう。
自分達に時代になかったものが現代にはふんだんにある、という構図は、文明の発達にしたがって、いつでも起こりうるものです。そして古い世代は、便利さに囲まれた(甘える機会に囲まれた)新しい世代を見て困惑する、というか嫉妬を覚えてしまいます。その結果、不快感を覚えて、新しい世代を、だらしない、甘えすぎる、・・・、といって非難します。これは新しい時代に適応していない古い世代の心理です。
頑張って得る必要がないものを頑張ってる、なんていう行動は我々にはできません、というのが正解ではないでしょうか?もし、必要なことであるけれども頑張ることができずにいる常態があれば、これはある意味、心の病気でもあるといえましょう。「やる気の喪失」でもありますね。文明化の時代に応じた「甘えの構造」を理解しなければ、若い世代に対して文句ばかり言う年寄りにしかなれないと言えるでしょう。
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