タイトルの「
子供を甘やかしすぎてスポイルするということはない」というのは、
加藤諦三氏のサイトの中にあるエッセイのタイトルだ。これをみて、ん?!ん?という思いに駆られてしまった。どうもおかしい。大体、子供に限らず、「甘やかす」ということは、人をスポイルしてしまう結果になるから、「良くないこと」と認識されているのが普通ではないだろうか?こういう例のように、甘える、甘えさせる、甘やかす、は、概念も統一的でなく、したがって、どうにもならないほどに混沌とした状態であるといってよい。
まず、加藤氏の短文をここに引用し、問題を論じてみよう。
(引用開始)
人を育てる 第1回 [2002/10/08]
子供を甘やかしすぎてスポイルするということはない
子供が「シャベルを欲しい」という。子供が本当にシャベルを欲しい場合と、母親の関心を引くためにわがままを言っている場合と二つある。本当にシャベルを欲しい場合には与えることが望ましいのは勿論である。
問題は本当にシャベルを欲しくないのに、母親の関心を引くためのわがままを言っている時である。このシャベルを欲しいと言うわがままは自分に関心を持ってくれという要求である。
親が無関心な上にシャベルが欲しいという要求がいつも拒否されると、どうなるか。親を恨んで問題児となるか、自分で自分にしか関心のないナルシシストになっていく。
ではシャベルを欲しいと言うわがままが通る場合にはどうなるか。次はバケツを欲しがる。そこで親が放任で次から次へと与える。この場合その子はますますわがままになるだけである。子供が欲しいのはシャベルやバケツではなく、母親の関心だからである。
そしてこの子は母親の関心を得られないまま、自分で自分に関心を持つナルシシストになっていく。また「わがままな大人」に成長していくだろう。それを見て母親はこんなに与えたのにと思っている。
そして周囲の人はどう言うか。「あの人は子供の頃から甘やかされ過ぎたから、あの様にわがままな大人になっちゃった」。
ここまでは良い。
しかしそうではない。この人は自分に眼を向けて欲しいと言う甘えの欲求が満たされないから、その様に社会性のない大人になったのである。よく「親が子供を甘やかしすぎて子供をスポイルした」と言う。これは間違いである。スポイルされた大人になった場合、親は子供を甘やかしてはいない。逆に甘えることを許さなかったのである。
本心からではない要求にこたえることを「甘やかし」といいながら、
「甘やかしすぎて子供をスポイルした」というのは間違いだという。
それはおかしいことに気づかねばならないだろう。甘えることを許さなかった、
というのは、本心からの甘えには応じなかった、ということであり、
本心から出ない甘えには応じ続けたのである。
子供は甘えたかった。つまり親の積極的な関心が欲しかった。しかし親の注意を得たいときに親の注意を得られなかった。そこで大人になっても甘えの欲求が満たされていなくて暴れまわっているのである。
甘やかされたためにそうなっていると表現して間違いではないだろう。
したがってタイトルの論旨は誤りである。
あれをしろ、これをしろという要求は、私に言わせれば、いわゆる「不安なしがみつき」である。「不安なしがみつき」とは子供養育研究の権威ボールビーの言葉である。
そのような要求は、不安なしがみつきと表現しても内容がないと言える。
それが満たされねば病気になる、それが満たされれば病気が治る、
といった性質を持つ基本的欲求の充足がなされていないのであれば、
人はがむしゃらにそれを求めて当然であると言えよう。
そのような欲求が基本的欲求に基づくもの(本心からの要求)なのか
代理欲求(見せ掛けの要求)なのかの区別が大切である。
一般に「甘やかされてスポイルされた大人」と言われている人達は、不安だからわがままを言って、身近な人達にしがみついているだけである。分かりやすく言えば、絡んでいるのである。わがままを言って周囲の人の関心を確認したいのである。
関心を確認したい、と言うのは一面であって、本質でない。
甘えの内容を知る必要がある。そして満たすべきは具体的に満たして
あげなければ意味がない。
子供を甘やかしすぎてスポイルするということはない。甘えの欲求は甘えられれば解消する。子供をスポイルするのは親の無関心である。
子供を甘やかすと子供をスポイルすることになるのだ。
甘え、甘えさせる、甘やかしが混同されている。
子供の欲求は本心からの甘えであれば解消するが、見かけの甘えであれば、
それは延々と続く(甘やかし)。それがスポイルする。もちろん、無関心、
甘えさせないと言うのも子供をスポイルするのは当然だ。
(引用終了)
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