さて、自分では分からない自分の癖の集合体である無意識あるいは死霊は、どのようにして成り立っているのだろうか。ここに人間と他の動物との根源的な違いが見られるようである。
犬や猫を飼った経験、また養豚場や養鶏場で働く人達のお話からすると、彼らは、生後直後から、色々なことができるようである。とても人間の比ではない。た とえば、豚は生れ落ちるとすぐにヨチヨチと歩き、母豚のおっぱいを探し当てて飲むことができるようだ。生まれたの人間にはこんなことはとてもできない。唇 に乳首を触れさせ、あるいは加えさせてはじめて吸い付く。このことで人間は命を育んでいくことがかろうじて?できるといってよい存在だ。
およそ満一歳になった頃の人間が生まれたての豚と同じようなことができる状態となる。このため、動物に比べると、人間は一年ほど早産であることになる。し かしこれは生理的現象であるので、生理的早産と呼ばれる。このため、人間は、動物ほどには、本能的なことができない状態となる。
では人間は一人前になるにはどうするのか。それは『模倣』であると考えられる。脳科学的にはミラーニューロンという物まね細胞がイタリアのラゾラッティ教 授による発見などで知られている現象だが、日本文化的には、あの親にしてこの子あり、蛙の子は蛙、子は親の背を見て育つ、・・・、といった諺に示されるよ うに、模倣はよく認識されている現象である。これは古代大和(現代沖縄)文化的には『ちぢうり』と呼ばれているものだ。文字を持たない沖縄語であるが、こ の『ちぢうり』に対して、大橋英寿東北大学助教授(当時)は『継降』という字を当てた。言い得て妙である。
以上のことがあるため、動物を人間が育てても人間になることはできないが、人間は動物に育てられると、その動物の行動様式を真似てしまい、その動物のよう になってしまう、ということがあるようだ。1925年にインドで発見されたアマラとカマラの狼に育てられた子が、この例としては有名であろう。ということ は、人間の無意識は、養育者の行動様式を模倣したものであるということだ。養育者が普通に人間の『親』であるなら、育てられた子も『人間』の行動様式を持 つ。
ところで、その親もまた育てた親がいるわけだ。したがって、『親』は『親の親』の無意識をコピーしている。『親の親』はまた『親の親の親』の無意識をコ ピーしている。この関係は、寸断することなく、究極の祖先にまでさかのぼることであろう。ここで、無意識が死霊、すなわち死者の霊(心)であることの意味 が分かることとなる。そして、無意識なるものは、先祖の集合体とでも言えるようなものであることも分かる。
PR