2004年8月21日:初出し
2008年(平成20年)4月19日(土):旧ブログより移動
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昨日の石垣市宮良公民館での文化講演について、ここ石垣市のアビヤン・パナホテルにお迎えが来るまで一時間ほどあるのを利用して、印象などを書き込んでおきたい。
「公民館」といえば、現代では行政の管轄下にあり、市役所などの課長クラスが公民館館長となっているのが普通である。ところが、ここ宮良公民館は行政組織ではなく、字の自前の独立したものであった。まず、この点が非常に新鮮に感じてしまった。
ここ石垣市を訪れるのは三度目になる。訪れるたびに思うのだが、町並みが、僕が小さい頃の沖縄を思い出させてしまうのだ。この感覚は伊江島を訪れたときにも生じた。とはいっても、土地の人たちの会話を聞いても、全く理解できない(^^;。
文化偏縁説だったか? 柳田國男の説では、古い文化は周辺の地域に残るといったものがある(記憶が定かでないが)。ここでもまさにその通りで、沖縄本島で消えかかっているようなものが残っているようだ。例えば、次のようなものだ。
伝統文化としての「祖先崇拝」であるが、その原理は「自分は自分であって自分でない」ということを悟り、祖先崇拝の三つの心、(1)いばらない、(2)せめない、(3)努力を怠らない、ということを体現するというものである。
このような話を講演したのだが、事後の懇親会では、宮良地区には「憲章」なるものがあり、それが表現していることと精神が全く同じである、ということだった。残念ながら、その憲章を手に入れるには時間がないけれども、後てゆっくりと必要があればと思う。
要は、そのような精神が生きているということである。ここが面白い!
祖先崇拝なるものは、広辞苑にも示されている通り、宗教の原初形態であり、低級宗教であると認識されることが多いようだ。そのため、当地の学識者は、このことを殆ど研究していない。宗教者はといえば、自派の宗教の宣撫の為、祖先崇拝を批難するばかりである。
ところがどっこい、研究してみると、精神医学・心理学の治療論と同等以上の内容をもっていることが知れたのだ。宮良地区に残っているという心は、おそらく は何もしなければ、都市化と時代の波にもまれて、あるいは消えていくのかも知れない。しかし、その心の内容を明示的に表現しうるようになった今、そして有 用なものであると言う事がわかった今、ますます生き延びていくのではないだろうか。
そんな事に貢献しうるような研究ができた事を、そして当地で講演できた事を誇りに思ったりもする。関係者各位に深謝の意を表する。
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