日本人と欧米人は性質が同じだ、と主張する人はいないだろう。どこが違うのか? たとえば、欧米人は人前で平気でキスをすることもハグをすることも出来る。また、自己主張は日本人よりっも大変に強い。この違いをよく見つめてみると、その背景に、甘えの心理と相互信頼が横たわっていることに気づくのではないだろうか? 欧米の人間関係は、どうも相手を信頼しているようには見えず、逆に日本の人間関係は、相手に対する信頼がベースにあるように見える。信頼できる人を信頼していなければ相手に失礼だろうし、信頼しないほうが良い相手を信頼してしまえば困ったことにもなろうし、したがって、どちらが良いとは一概には言い難い。また、欧米の人間関係では、相手に甘えない、ということで通低しているようだし、日本の人間関係では、逆に、甘えることが許されているように見える。
ところで、この「甘え」というのは、本論で考察する「家族力」とはどのような関係なのだろうか。そのためには、まず家族力なるものを定義しなければならない。家族とは親子などを基本として構成される、法的にも関連付けられた者たちの集まり、ということができるのではないだろうか。その家族の構成メンバーは、子を養育したり、相互に支え合い、といったことを行うが、それは、基本的には、報酬を得ることを目的とはしないで行われるのが普通である、という特徴がある。ついでといっては何であるが、大辞泉による説明も述べておくと、家族とは、夫婦とその血縁関係者を中心に構成され、共同生活の単位となる集団。近代家族では、夫婦とその未婚の子からなる核家族が一般的形態、というものだ。
家族とは、知人、友人達の集まりといったものとは異なる、親密な関係の集団である。親密な関係というのは、情がつながった関係である。すると、相手の行動や言動が自分の喜怒哀楽と密接な関係を持つようになる。そんな性質があるから、不快を覚える行動をする者がいると制止したり、快を覚える行動をする者に対しては励ましたり、・・・、といったことが起こる。一昔前までは、他人がそんなことをしても、特に不快を覚える行動に対しては、注意することが当たり前のように生じたものであったが、現代では、特に都会では無視することが当たり前のようになってしまっている。自分の経験から強いても、昔であれば子供達にやさしく注意をしただろうけれども、今ではそんな気はさらさら起きない・・・。(この変化は何なのか? 社会の変化に自分が適応した結果なのだろうか、それとも自分自身が社会とは無関係に変化してしまったのだろうか?)
いずれにせよ、家族成員間は、情でつながっているので、互いに影響力を及ぼしあう存在だ。家族成員に何か困った事や病気などが発生したとき、家族は、右往左往することから始まり、問題に対処するようにアドバイスや協力をしたり、といった行動を呈するようになる。この行動を呈した結果、困ったことや病気などが改善するとき、これを「家族力」ということが出来るだろう。困り毎や病気などが返って悪化する場合には、負の家族力を考えることが出来る。
ところで、ここで言う「影響力」は、霊の作用そのものであると考えることが出来る。筆者が提唱している「まぶい分析学」は、日本文化、つまりアニミズムやシャマニズムの精神文化、に基づいて西洋の心理学を咀嚼し、体系化しようとするもの(したもの)であるが、この「霊」が基本概念のひとつとなっている。
僕のような者が「霊」という言葉を使うと、福来友吉の再到来か!という人もいるが、それは違うといってよい。福来友吉は、霊や超能力の問題を扱った心理学者で、当時は東京大学助教授であった。しかし、最終的には大学を追放された。実験的に証明しようとしたが、その実験を手伝った霊能者まで疑われてしまい、不幸な結果になってしまったのだ。このあたりの事情に関心ある方は、實川幹朗編著、心理療法とスピリチュアルな癒し-霊的治療文化再考-、春秋社、二〇〇七年にも述べられているので参考にされたい。
「霊」とは、科学的思考を可能にするには、「心に影響を与える力」とすればよい。こうすれば、アニミズム(日本語では有霊観)は、自然界の諸事物に霊魂・精霊などの存在を認め、このような霊的存在に対する信仰であり、英国の人類学者タイラーは、これを宗教の起源としたものである(大辞泉)わけだが、起源ではなく、人間の生存に関する本質として捕らえてよいようになる。
このように考えてくると、「家族」というものは、影響力を有するもの(特に家族成員)、すなわち「霊」に囲まれている者、あるいは「霊」を囲む者達であるというようにもなる。 この影響力を発揮するものの一例として「言葉」がある。これは昔から「言霊(ことだま)」として認識されていることだ。PR