2004年9月18日:初出し
2008年(平成20年)4月21日(月):旧ブログより移動
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ま ず、男(女)らしさについて考えてみる。幼児期における「らしさ」は「男は腕白、女はおとなしい」が代表的であろう。これはアメリカ人(メリーランド大学 アジア校の学生)でも同様の認識であった。この性質は成人しても同様で「男は攻撃的・積極的、女は従順・受容的」などと言われる。これらの性質は、十分に 後天的なものと考えることができよう。それは次のようである。
フェミニストやジェンダーフリーイストは、これらを文化的・社会的産物と考える。そして、これらを解消していこうとする。
攻撃性や受容性はどのようにして生じるのだろうか。周りにいる人を観察すると、性別にかかわらず、攻撃的な人は欲求不満状態にあり、受容的な人は欲求がそ れほど不満ではない状態にあることはたやすく理解されるのではないだろうか。とても社会的・文化的な要因が、そのような傾向を形成するように働いていると は、少なくとも幼児については考えられない。
幼児について考えられるのは、親子関係・母子関係すなわち家族関係であろう。ということは、我々が気がつかないうちに、家族関係にあっては、男の子と女の 子では、異なった関係状態にあるということである。それは、母親が子育てを担当していることが普通であることから、男の子は異性である母親に、女の子は同 性である母親に育てられている、ということだろう。
子育ての本質を「母」が実践すると、生後6ケ月もするころには、条件母性反射が形成され、人見知りを呈するようになり、以後、子は「母」に甘えるようにな る、という性質を持つ。また、「甘え」の心理からすれば、同種の者には甘えやすく、異種の者には甘えにくい、ということがある。ということは、甘えやすい 存在の「母」がいる女の子にとっては「安心感」を覚えるので、言い換えれば欲求不満状態ではないので、従順さ、受容的、おとなしさ、といったことが自然に 実現されることとなる。一方、甘えにくい存在の「母」がいる男の子にとっては、女の子ほどには安心感は覚えず、むしろ寂寞感を覚えるようになるといえよ う。つまり欲求不満状態になるわけだ。となると、男の子は女の子に比べて欲求を充足させようとする行動が活発になるわけである。このようにして、一般的に 言われる、男は腕白、女はおとなしい、というジェンダーが発生することとなる。
アメリカの文化人類学者マーガレット・ミードのチャンブリ族の研究が信憑性を失うまでは、彼女の報告は上記のことの例証となったものである。拙著の「これで良いのか?病める日本の心理学」(
ウェブマガジン・ワールドリーダ掲載)には、そのように扱われている。したがって例証は他に求める必要があることになる。
子供達に関する相談の中には、男の子なのにおとなしすぎる、女の子なのに腕白が過ぎる、といった悩みを抱えている事例も結構ある。上記の例証にはこれが役に立つこととなる。
おとなしすぎる男の子の場合には、ほぼ例外なく親が過保護であった。また腕白すぎる女の子は、親(母親)が放任・もしくは過干渉であった。このようなこと であれば、安心感を覚える環境にあれば、男女にかかわりなく、おとなしい性質の子として育ち、寂寞感を覚えるような環境にあれば、男女にかかわりなく、腕 白な性質の子として育つ傾向は十分に観察される。
さて、ブレンダの場合はどうだろうか。「
ブレンダと呼ばれた少年」が手に入らないので、紹介されていることから推測するしかないが、次のことが言えそうである。
(1)北米では、日本と異なり、親子が別室で寝る慣習がある。
(2)医師ジョン・マネーは子供達に嫌われていた。
北米の慣習では、男の子も女の子も、日本と比較すると、甘えたくても甘えられない環境下にあると言え、どちらも腕白な子として育ちやすい環境下にあると言 える。また、治療のために医師が定期的に来るということは(あるいは医師の元にいく)、病気という悪いものがあるので治してもらう、ということになること に注意したい。「性」に関して治療を受けるわけであるから、ブレンダの心には、その「性」は何かしら悪いもの、というイメージを植えつけられていった、と 考えても良いのではないだろうか。となると、腕白という男の子の属性を持ち、かつ後天的に与えられた「女」という「性」に対して、思春期になる頃には相当 の違和感を持ってもおかしくないと考えられる。
以上の点からすれば、ブレンダの家族やマネーは、彼を女の子として育てることに失敗したとも考えられるのである。
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