基本的欲求あるいは基本的欲求に基づく甘えは、実生活においては、常に必ず充足されるものとは言い難い。例えば、夫婦仲が悪ければ、あるいは共稼ぎ夫婦でいつも帰宅が遅ければ、子の安全欲求は充足されないのが普通であろう。生理的欲求も充足されないこともある。例えば、「お母さん、一緒に寝ようよ!」という気持ちがあっても、夫婦喧嘩が多ければそうもいかないことも多かろう。また「お母さん、おなかがすいたよ!」といいたくても、母親の機嫌が悪ければ言い難くなってしまうものだ(甘えられなくなってしまうものだ)。
以上のような、ある基本的欲求が充足されないとき、まぶい分析学では、人は退行もしくは越行し、代理欲求に基づいて甘えるようになると考えるのである。
例えば、安全欲求と安全欲求に基づく甘えが充足されない場合を考えよう。基本的欲求が充足されないというのは、悪くすれば病気になり死に至るというほどに重大なことである。したがって、人は何とか充足させようとあがくと考えてよい。
このとき、甘えられる状態にある人を見ると、それを模倣することにより、自分も甘えようとする。模倣する相手が自分よりも低年齢で、下位の欲求に基づいて甘えているのを模倣するとき、これは「退行」と呼ばれる。逆に、自分よりも高年齢で、上位の欲求に基づいて甘えているのを模倣するとき、これは普通には「おませさん」などと呼ばれたりするが、これを「越行」と呼ぼう。ここで注意する必要があるのは、「退行」という言葉は従来からあったが、「越行」は、まぶい心理学において新たに定義される、退行と対をなす概念である。
一般に、甘えたくても甘えられない状態に置かれると、土居健郎が指摘したように、拗ねる、僻む、・・・、といった心意が現れる。したがって、退行もしくは越行の状態にある人には、拗ね、僻み、・・・、の心意が潜んでいることに注意する必要がある。
退行もしくは越行の状態にあるときに現れている基本的欲求は、それは発達段階に沿って自然に現れるものではなく、充足されない欲求の代わりに模倣によって現れるものであるから、これを代理欲求と呼ぶ。代理欲求と基本的欲求の違いは次のようである。
基本的欲求は、充足すれば、欲求の程度が減少する。例えば、空腹は、食事をすれば、空腹でなくなるということだ。しかし、代理欲求は、それ自体を充足しても、それが現れる原因となっている未充足の基本的欲求が充足されない限り、決して充足されて欲求の程度が減少するということがなく、いつまでも求め続けるというものだ。食欲が代理欲求として表れているときには、食べても食べても満足感が得られず、いつまでも食べ続けるということになったりする。
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