2008年1月12日(土) 統合のためHPより転載 母性(原理)と父性(原理) 日本文化の心理学による試案(平成13年12月15日現在、初稿掲載) 同日、コメントを追加した。なお、コメントは文字を小さくし、色を変えておいた。
2008年(平成20年)3月25日(火):旧ブログより移動
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1 はじめに
昨今の痛ましくも悲惨な事件の報道が連日行われる中で、「家庭のあり方」が深刻な問題になってきている。それを反映してか、林道義東京女子大学教授の「父 性の復権、中公新書」がベストセラーとなった。これを契機として、論客達が林氏の論に批判を加え、林氏もまたホーム・ページを開設し、これらの批判に応え ている{註1、註2}。これらを読み進んで行くに連れて、ここには、現代社会の問題が集約されている感を覚えるようになってきた。
著者は文化精神医学者・荻野恒一の晩年最後の弟子(共同研究者)として、文化と家族の関わりの中での人間 について、およそ四半世紀にわたって研究・観察を続けてきた{註3}。この中にあって、西洋諸心理学を日本文化の中で見直し、拡張・統合の試みを行い、日 本文化の考え方を心理療法化することを試みてきている{註4,註5}。この観点からすれば、一連の論客達が主張する母性(原理)および父性(原理)は、隔 靴掻痒の感を拭えないところがあるので、この機会に、ここで私見を展開してみたい。
そのきっかけとなったのは、林氏が主張するところの、子供を理解し受け入れることを母性原理、子供を鍛え、ルールを教え、悪いことは悪いということを父性 原理、それらを体現しているのが、それぞれ、母であり父である、ということであった。直感的には、それはそれでよいのだが、林氏の本や主張を読み進んでい くと、「では、母子家庭の子はどうなるのか?」あるいは「父子家庭の子はどうなるのか?」さらには「両親が出稼ぎに出かけて、祖母一人に育てられる子はど うなるのか?」といった疑問にどうしてもぶつかってしまった。というのは、離婚率が全国一、失業率が全国一の沖縄県で臨床を行う著者にすれば、父の役割と 父性が強調される度に、「う~む」と唸ってしまわざるを得ないのだ。なぜなら、著者は、離婚ないしは単身赴任、季節労働といったことで、母子だけの家庭の 諸問題をも扱う機会が多く、問題解決に際しては、父親が物理的に存在しなくても、十分に成果を上げているという実績があるからだ。したがって、これは林氏 の主張に限らないのだが、他の論客達による現代の一連の母性・父性と子育ての問題は、
どこかで何かがおかしい、と感じざるを得ないのだ。
どこかで何かがおかしい:こ の疑問は現在(2008年1月12日)において、さらに強くなっている。心理学であるならば、父性・母性の問題は一つのありようを示すことではなく、何故 にそれが成立するようになったのか?といったことが第一義的な課題であると思う。ありようを示すだけでは、社会問題は解決しないといってよい。社会には、 色々なありようがあるし、その色々なありようそのものが、ある意味、すべて対等であろう。
2 母性と父性の原点
「母性」及び「父性」を辞書で調べると次のようになる(新辞林、大辞林)。
母性とは、女性がもっていると されている、母親としての本能や性質であり、子を生み育てる機能である。また、父性とは、父親としての本能や性質であるとされる。これらの辞書からは具体 的なことは知ることはできないけれども、いずれにせよ、母性も父性も家族機能としての子育てに関わる問題であることは衆目の一致を見ることであると考えら れる。したがって「子育ての本質」を基盤として、これらを論じることが基本であると考えられる。
子育ての本質とは、著者が提唱しているまぶい分析学あるいは日本文化の心理学と家族療法{註6}においては「子の心に生じる不快感を除去し快感に変える一 連の作業」と定義される。子供の養育は、少なくとも乳幼児期の間は、機能する乳房の所有者である母親の独占的業務であるのが一般的である。しかし、もちろ ん絶対的なものではない。妻に先立たれた夫が子供を哺乳壜で養育する場合だってあるし、仕事に忙しい母親の代わりに哺乳壜で養育する祖母だっている。
いずれにせよ、子育ての本質が母親(養親でも良い、一般化可能であるが、ここでは「母親」とする)によって実践されると、生後半年が経過する頃には、不快 感・母親・快感、の三要素間に条件反射が成立するようになる。これを「条件母性反射」と呼んでいる。それが成立した証として、子には「人見知り」が発現す る。これはルネ・スピッツが八ヶ月不安と呼んだものだ{註7}。子に人見知りが発現したということは、子が心理的な「親」を認識したということである。こ れ以降は、子は、もっぱら、母親に甘えていくこととなる。母に甘えると快感を覚えるのである。この様に、子の要求に応えて快感を与えるのが、いわゆる「母 性」であろう。この意味では、「母性」とは「甘えさせること」すなわち「子の求めに応じること」であると言えよう。
厳密に言うなら、本シリーズでは、「自分でできることではあるのに、あえて他人の手を煩わそうとすること」を「甘え」と考えてきたわけである。その意味で は、生まれたての赤ちゃんがお腹をすかして泣くこと、寝たきりになった人が「尿瓶を持ってきてくれ!」と頼むことなどは「甘え」とは言えない。しかし、こ の場合は「子の求めに応じること」を「甘えさえること」と考えるのは一般感覚と異ならないと考えられるので、分かりやすくすることをねらってこのように表 現しておく。
さて、母親の世話になりながら子は成長して行くが、やがては、父親や同胞、そして場合によっては祖父母も存在することに気付くようになる。母親以外に対し ては、条件母性反射が成立していないのが普通であるので、結局は、何かある度に母親の元で甘える。そうこうしているうちに言葉が話せるようになると、周り のものとは、言葉を介して「甘える」様になっていく。無条件に情緒的に受け入れられていたのが、言語的なコミュニケーションでも受け入れられるように関係 が作られていくようになる。
穿った見方かも知れないが、私は以上の点に「母性」と「父性」の原点があるように思う。母性とは情緒的関係、父性とは言語的関係で代表されるものではなかろうか。言い換えれば、母性はエロスであり、父性はロゴスである。
(続く)
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