2008年(平成20年)1月20日(日):初出し
2008年(平成20年3月24日(月):旧ブログより転載・加筆・訂正
初出しの稿は、なんだかピントが外れていたので赤面している(^^;
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従来の心理学者(西洋諸心理学理論に基づく)が主張する母性・父性と、まぶい分析学(日本文化に基づく心理学)が主張する母性・父性との決定的な違いは次のようである。前者では、『父性』を母性からの『切断』をするものと考え、後者では『父性』は母性の社会への『接続』と考える点である。朝日新聞に、
染谷正弘氏による住宅に関する母性・父性の論理による解釈が掲載されている。これを例にとり、決定的な違いについて考えてみよう。
ブログ移転時に読み直してみると、決定的な違いについて述べるのではなく、
染谷氏の考え方が洋の東西の建築様式が従来の父性・母性原理社会の
反映であるというのに対し、いや、それは夫婦中心主義か家族(親子)中心主義
かの違いではないのか?ということだった(^^;
従来の心理学での考え方では、母性原理は、簡単に言えば、すべてを包み込み、父性原理は、すべてを切断していくものである。染谷氏は、この様子を、日本的な住宅の構造と西洋的な住宅の構造の違いとして着目した。氏曰く;
(引用ここから)
日本の伝統家屋は、木造の柱、梁の開放的なフレーム(軸組み)から成り、薄いスクリーンのような襖や障子の「引き建具」で間仕切ることによって融通無碍に いろいろな「間」をつくる。そこが日々の居住空間となる。ここでの住まい手のコミュニケーションは、明快な言葉より気配や作法の方が重要視され、互いを気 遣い合う思いが住まい手同士の一体感を醸成していく。それは、「すべてのものを全体として包み込む機能」をもつ母性原理を空間化したものといえよう。
「母性原理」優先の居住空間では、同居人の誰もが、家族という組織に抱かれ、溶け込んでしまった自分に居心地の良さを感じているに違いない。そのとき、自 我やプライバシーという概念は存在しないと言ってもいいほどに希薄ものとなっている。それは、封建的な「家=イエ」制度の空間化でもあったことを忘れては ならないだろう。
それに対し、西欧の伝統家屋は、石積みの重く厚い壁で囲まれ、その壁に穴を開けるかのように小さな窓や入り口を設けてドア等の「開き建具」で開閉するとい う密室性の高い「室」がつくられる。その「室」の集合体が、日々の居住空間となる。それは、「物事を切断し分離してゆく機能」をもつ父性原理を空間化した ものといえよう。
「父性原理」優先の居住空間は、冷たい石造りの修道院で神と対峙して暮す修道僧の個室群をイメージしてもらえばよく、「自我の確立」養成空間といってもい いかもしれない。それは厳しい訓練のうえに「個」の確立があって西欧社会は成立していると、河合隼雄氏の指摘するところでもある。
(引用ここまで)
はたしてこの考え方は正しいだろうか?まず、住宅構造は、・・・原理に支配されるだろうか?住宅を作ろうとする人が第一義的に考える間取りは、若い夫婦の 夜の生活空間(セックスのための部屋(笑))と、昼の生活空間のためのものではなかろうか?この区別は、洋の東西を問わず基本であろう。沖縄(古代大 和?)の標準的な住宅は、一番座(床の間)と二番座(居間)の後に、クチャと呼ばれる、押入れで隔てられた部屋が存在する。一番座や二番座は区切りを取り 払うことでひとつの大きな部屋とすることが出来る。
基本的な生活様式の、洋の東西の違いは、夫婦が赤ちゃんと同室するかしないかである。夫婦部屋と子供部屋との区別が行われるかどうか、である。日本では幼 少時には四六時中親と一緒であり、西洋では幼少時から特に夜は親子が別になる。このことが住宅の基本構造に違いをもたらすと考えられ、・・・原理ではない と思われるのである。
このような間違いは、母性はすべてを包み込み、父性は切断する機能と考えた従来の心理学の間違いに基づくものだ。父性は、母性を社会へ接続する機能と考えると、また違った見方ができるのではなかろうか?西洋では、子は幼児期から親に甘えることが(我々に比べると)ほとんど許されないので、基本的には対人不信を抱えてしまうことが特徴だ。対人不信の心理が、住宅の基本構造に反映していると考えられる。実際、蜜月時代の夫婦は壁なんか取り払ってしまいたい心理になるだろうし、不信感が募れば、家庭内別居のように(笑)、西洋的構造になってしまうのだ。
未完
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