5 「わがまま犬」の心理{註1}
ベストセラーとなった林氏の著書「父性の復権(中公新書)」において、父性欠如の例として、「わがまま犬」を例に挙げている。これは、犬の意思を尊重し て、犬の要求を何でも聞いてやっていると、犬は自分が主人だと思って自由意志を持ち、勝手に要求をして、やたらと吠えるようになる、というものだ。飼い主 が「父」として原則・理念と生活規則を教え、一定の我慢をすることを教えないと、子供でも犬でも同じようにわがままに育ってしまうのである、と林氏は主張 する。
著者は、実は、この記述には大いに不満である。まあ、ここでの「犬」は比喩であるから、「犬」というとこ ろを「子供」に置き換えて読んでみよう。子供の言いなりになっている親のことである。この手の問題には比較的多く遭遇してきたので、その経験から言えるこ とは、これは「父性」の問題ではなくて、「甘やかし」の問題である、ということだ。基本的欲求なるものは、それがなければ病気になる、それがあれば病気を 防ぐ、それを取り戻せば病気から回復する、という生命維持と深く関わったものであるので、これは充足させてしかるべきであって、理念と生活規則を教え、一 定の我慢をすることを教えるということでは、自分は迷惑を被ることは避けられるけれども、相手を、極端に言えば、死に追いやってしまうことなのである。し たがって、「わがまま犬」が要求しているのは、基本的欲求に基づいているものなのか、をよく認識しなければならない。
林氏は「甘やかし」に対処する術として、「父性」でもって統治しようとしたものと考えられる。しかし、「甘え」に対処する方法には、要求を断念させるか (相手を従わせるほどに権威ある父性による)、あるいは飲むか(母性による)という二つの方法が基本的には存在するので、要注意である。林氏は、この一方 の考え方のみに立脚しているので、読者の大いなる賛成と顰蹙なる反対をかっているものと考えられる。ここは円満に解決されねばならない。それでは心理 「学」の成果としては不十分であるからだ。
「わがまま」とは、自分勝手に気ままに振る舞うことである。相手の事情などは考えずに、自分の欲求充足のみを目的とする行動である。人間の「欲求」の充足 に関しては、マズローの欲求階層論を用いて理論的に考えることができる。マズローの理論に代理欲求、退行、及び越行の概念を追加して拡張すると (Maslow-Matayoshiの理論)、わがままな行動を呈する子の心理構造を理解し対処することができるようになる。わがままな行動を、無理をし てでも受容することを、通常では「甘やかし」と呼んでいる。
「甘やかし」とは、次のように考えられる心理機制である。人間の精神的成長をマズローの図式で考える{註2}。子は条件母性反射が成立した相手(一般的に は母親)から生理的欲求、安全欲求、…、を順次充足させてもらいながら成長する。ところが、このとき、例えば、夫婦不和、共稼ぎ、といったことで安全欲求 を充足させることができないとする。これは現実によく見られることだ。
例えば、親の都合で、安全欲求がどうしても充足されない子は、他者の行動を模倣して、親との関係を持とうとすることが観察される。その結果、安全欲求が充 足されないことを補償する行動として、模倣によって、生理的欲求に基づく行動が現れたり(退行)、あるいは、所属・愛情欲求や承認欲求、自己実現欲求に基 づく甘えの行動が現れたりする(越行と定義する)。これらは基本的欲求の充足が妨げられたために生じる代理欲求である。子供によく現れるのが所属・愛情欲 求に基づく行動で、「あれ買って、これ買って!」というおねだりである。
代理欲求を充足させても、それが発生する原因となっている基本的欲求(この例では安全欲求)が充足されるまでは、それは精神的成長につながらず、いつまで もその欲求が出続けるという特徴がある。肉体年齢の増加とともに、次第にその欲求は肥大化し、暴力でもって親からむしり取る、といったことにまで発展した りする。いわゆる家庭内暴力である。これは、一般的な感覚でいう「甘やかし」である。すなわち、「甘やかし」とは「代理欲求のみを充足させること」であ る。
この考え方で、勤労意欲が無く、金銭浪費の激しい青年達の心理療法が可能である{註3}。これは治療者が直接クライエントと関わるのではなく、その母親を 介して可能となる方法である。本来充足されるべきであった基本的欲求(この場合は安全欲求)を充足させながら、代理欲求を充足させていくと、その結果、次 位の承認欲求が自然に発生するのである。この様な事例において、条件母性反射が成立していない人(父性)が子と接しても、それは旨く行かない。禁止をして も、それは一時的なものであって、父に隠れて母からせびりとったり、友人やサラ金から借りたり、といったことが起こり、対処はなかなか困難だ。まずは母性 による問題解決が効果的であると思われる。
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註1 林道義:父性の復権、中公新書。
註2 上田吉一:人間の完成-マスロー心理学研究、誠信書房、東京。
註3 又吉正治:勤労意欲がなく、金銭浪費癖の激しい青年の心理治療、九州臨床心理学会沖縄大会、1999年。
6.林のいう父性のひとつ「文化の継承者」について
父性の復権において、林は父性の機能として「文化の継承」をあげている。アニミズムという日本文化の研究を行ってきた筆者の立場からすれば、これは決して 父性のみの役割ではない。例えば仮に、「男」だけが参加するお祭りを考えてみても、それは日常の世界で鬱積した感情を社会的・合法的に発散させてしまお う、といった性格を持つことがある。その場合には、腕白な小僧が母に拗ねて甘えるように、男達のエネルギーを発散させる母性への回帰のようにも感じられ る。果たして、父性が文化の継承者、と言えるのであろうか?
文化には、表の文化と裏の文化がある。いわゆるハレとケだ。父性は「ハレ」に関する文化の伝承者というのならば頷ける。「ケ」の部分は母性文化なのだ。日 本文化としてのアニミズム、祖先崇拝はその代表的なものである。表の文化「ハレ」は、例えば、端午の節句や雛祭り、といった、誰がやってもおかしくなく、 参加することによって家族や地域の一体感を助長する、という機能を持っている。地域行事は、若者が集い、長老の意見を参考にしながら、年に一度のお祭りを みんなで盛り上げる、といった雰囲気を持っている。これに対して裏の文化「ケ」は、家族に不幸や災難、病気が起こったときに執り行われるものである。それ を堂々と行うことは、とても恥ずかしくてできないのが普通である。理解し合える者同士が助け合う、という形で行われる。開催される日も定かでなく、オン・ デマンド方式だ。これらは、「非日常」と「日常」の世界の違いでもあろう。
表の文化がちゃんと形成・実行されるためには、裏の文化がそれをきちんと支えていなければならない。例えば、何らかの行事や会合をもつにしても、その活動 を支える「縁の下の力持ち」が必要である。父性を父や男達、母性を母や女達の行動と仮に表すならば、ある種の祭事を行うとき、男達の行動を支えている女達 の協力なくしては、何もできないことは日常的に理解されよう。正月を人に迎えることにしたって、一家の主がでんと座って客人を迎えることができる裏には、 主婦の働きがあってこそなのである。言うなれば、父性的活動は、母性に支えられていなければ何もできない、ということである。
父性(父)が表の文化を継承して行くにしても、それは、例えば家庭内が混乱していては始まらない。親子関係がままならず、子が親に反感を覚えてしまえば、 親が従事する「文化」にさえ反感を覚える。ちょうど、坊主憎けりゃ袈裟まで憎し、と同じことだ。そうなると文化の継承はおぼつかない。文化の継承には、そ れなりの基盤が必要である。親子関係が悪くて日本を飛び出していく人も結構見かけたものだ。このような心意を持って飛び出した人達は、現地の文化に同化し ようとする傾向が見られる。そうでない人達、例えば生活上の問題での移民、といった人達は、自分たちの文化を保持しようとする傾向が見られる。
以上のことは、林氏の主張にケチを付けることが目的ではない。僕の真意は、反論の多様さの原因を探ろうとするものである。何故に、このように多くの反論を 呼ぶのであろうか? その原因は、例えば、上記に示したように、「表」と「裏」は、文字通り「表裏一体」となって機能するものなのであるのに、あたかも、 「表」だけが存在するかの印象を与えるためではないだろうかと推察される。コインにも「表」と「裏」があるが、「表」だけでコインとして存在するわけでは ないのである。このようなところに違和感を生じせしめているものと考えられる。ある種の主張があるとき、それは理論的必然性を持っていない限り、その主張 を「表」とすれば、必ず「裏」の見方が存在するのである。このようなことに注意しながら、母性と父性をエロスとロゴスの観点から考えてみよう。
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