父親と子の関係は、基本的には、このような形で形成されるものと考えられる。ところがロゴスの関係におい ては、ある事象を「言葉」を使って伝達しあわねばならない。ある言葉を受け取ると、それを過去の経験に参照し、好い感情がでてくれば受容することができ、 悪い感情がでてくれば、程度問題ではあるが、受容できない。ある「行動」にしたってそうだ。
例えば、幼児期から母親に余り甘えることができずに成長した男は、父親となってから、自分の息子が母親にべたべたと甘える姿を見ること、あるいは母親が息 子をかわいがる姿を見ることに苦痛を感じる場合がある。嫉妬の感情が発生するのである。自分の出生と同時に母親に死なれ、物心つく頃には父親にも見捨てら れたジャン・ジャック・ルソーは、自分の子が産まれる度に孤児院の前に捨てに行ったほどである。エロスの愛に不足のある男は(男だけに限らないが)、いか にロゴスを発達させようとも、それは機能し得ないと行っていよい。このような特性が人間にはあるため、秩序や規範を維持しようにも、それが父性(父)の役 割といったところで、なかなか難しいのである。
秩序や規範が問題になると、そこには、それらを守るか守らない(守れない)かによって、「善」「悪」の概念がでてくる。父性(父親)の役割について、河合 氏と林氏に見られ、また一般に見られる共通のことは、それは「善・悪の判断」であると考えられる。しかし、善・悪とは何なのか、といったこともよく考えて みなければならない。まずは辞書を見てみよう。
ぜん 【善】
(1)よいこと。道理にかなったこと。また、そのようなおこない。⇔悪
(2)〔哲・倫〕一定の使用・行為・道徳・秩序などにおいて、人や物の性質(価値)がよいこと、望ましくすぐれていること。また、それらをよくあらしめる 根拠。真・美とならぶ基本的価値の一。倫理学の対象とされ、人間のあらゆる営みが目指すところ、あるいは営みを律する義務の源泉とされる。
あく 【悪】
(1)わるいこと。否定すべき物事。道徳・法律などに背く行動や考え。⇔善
「近代社会が内包する―」「―の道に走る」「―の限りを尽くす」
(2)演劇で、敵役。悪役。
(3)〔近世語〕悪口。悪態。「よく―をいひなんす。ちつとだまんなんし/洒落本・妓娼精子」
(接頭)名詞に付いて、畏敬の念を抱かせるほど荒々しく強い意を表す。「―七兵衛」「―源太」
とある。さらに、
○悪に強きは善(ぜん)にも強し(大きな悪事をできる者は、改心すれば大きな善事もできるものだ)。
○善に強い者は悪にも強い(善に専心する者がいったん悪の道に陥った場合は、悪にも専心する)。
○善の裏は悪(よいことがあれば、それに伴って必ず悪いこともあるということ)。
ということまで記されている(大辞林第二版)。以上のことから言えることは、善と悪は表裏一体のようである、ということだ。このあたりの「心理」を考えてみると次のようになる。
ある人にとって、欲求不満の状態を解消してくれる(甘えさせてくれる)人の行為は、その人にとっては「善」であると考えて良い。逆に、その人の欲求充足を 阻害する人(甘えを拒否する)人は、その人にとっては「悪」であると考えて良いであろう。多くの人々の欲求を充足させるような行為をなすとき、それは社会 的な「善」であり、逆に、多くの人々の欲求充足を阻害する行為をなすとき、それは社会的な「悪」である。
以上のように「善・悪」というものを考えるとき、これは父性(父親)が教える役割を持つものであると言えようか? そうではあるまい。子は(人間は)、母 親に甘える段階(エロスの甘えの段階)から、自分にとっての善悪判断は学習しているものである。例えばクラインが言い表すように、この生理的欲求を的確に 充足させてくれる母親・乳房は「良い」ものであり、それができなければ「悪い」母親・乳房なのである。これは種々の欲求充足の場面において体験されていく ことである。ここで「良い」ものに関しては安心感や満足感が伴い、逆に、「悪い」ものに関しては嫌悪感や拒否感が伴うことは容易に想像できる。
やがて、ロゴス機能が発現するようになると、「良い」あるいは「善」という言葉には安心感や満足感が伴うようになり、逆に、「悪い」あるいは「悪」という 言葉には嫌悪感や拒否感といった感情が伴うようになる。だから、「良いことをしたね?」と言われればいい気持ちになり、「悪いことをしたな!」と言われれ ばイヤな気持ちになるものなのである。
物事の善・悪の判断を子供に教えるとき、子供がこれまでにエロスの甘えの中で体験してきたような感情と一致しなければ、それは全く無意味であると言って良 いであろう。この意味では、社会における善・悪の判断能力を養成するのは、基本的には母性であると言うことができる。父性は、それを言語で表現したにすぎ ないのではないだろうか? このエロスとロゴスの一致が見られなければ、理性と感情は分裂してしまうであろう。
ここで「わがまま犬」の例に戻ってみよう。これは、自分の欲求を抑えることができず、いつも気ままに振る舞うことだ。自分の欲求を抑える、すなわち「我慢 する」ことを教えるのは、基本的には父性の役割であるとは考えられない。基本的欲求の充足の必要があるとき、それが「我慢」できるためには、すでにある程 度の欲求は充足されている状態でないと我慢はできるものではない。父性的に「我慢せよ!」と行って通用するのは、その我慢の程度がそれほど酷くないときで ある。若しくは、我慢しない場合に被る精神的・肉体的被害との兼ね合いによる。ここに「父性」には権威や権力あるいは暴力といった、「力」を伴わねばなら ない場合が発生する。あるいは我慢することによって得られる報酬があるときである。この意味においても、「父性」には何らかの報酬を与える能力が伴わねば 意味はない、ということになる。
例を挙げてみよう。著者が住む沖縄は、いわゆる夜型社会である。夏になると、子供達も夜遅くまで出歩くことがある。そんなとき、子供の非行化防止のため、 夜間徘徊を取り締まるPTA活動がよく行われる。夜間徘徊をする子供見つけたら「お家に帰りなさい」と注意・指導するのである。これは父性機能である。と ころが、お家でエロスの甘えが充足されるような環境にある子は、いわゆる聞き分けがとても良い。しかし、両親の不和、仕事でいない、・・・、といった状況 で、エロスの甘えが充足されない環境にある子供達は、注意・指導があっても、また別の場所に行ってしまうだけである。あるいは巡回指導員と鬼ごっこをして 遊ぶ始末である。
また、昨今では、子供がふざけていたりしても、注意する大人を見かけなくなった。注意して効果があるかどうか、ということが大切である。注意して効果があ るのは、エロスの甘えがある程度は充足されている子供達である。極端に不足している子供達からは、場合によっては、「何をこの野郎!」と思わぬ反撃を食 らってしまう。あるいは、エロスの甘えに不足のある子供達に対しては、ロゴスでの甘えを充足させながら、エロスでの甘えの関係に移行できるような話法が大 切である。また、成立した関係を維持できるような時間的ゆとりも必要になってくる。
以上のようなことからすれば、父性が有効に機能できるような社会になるように、母性機能を保護・充実させていくことが国策として必要であることになる。さ もなくば、社会の治安の悪化を招くことおびただしいであろう。余談であるが、次世代の子供達のエロスの甘えが不足すればするほど、社会は治安悪化するかも 知れない(退行)が、ノーベル賞を受賞するような人も増えてくるかも知れない(越行)。その好い例はアメリカである。
10.父と母の役割
これまでに述べてきたような考え方に基づき、父と母の役割を見てみよう。例として斎藤学氏の主張を取り上げる。斎藤氏は「区切る父と包む母」と題して、次のように述べている{註1}。
-以下引用始め-
「叱れない父」の困るところは、これでは父親に付託されてきた仕事がこなせないことである。家族とは何よりもまず子育ての場所だから、父の仕事の欠損は子 どもの成長に悪影響を与える。それが顕著になったというところで「家父長的父」の出番が来たような議論が湧き出しているのである。
では、父親の仕事とは何か。その本質は「区切ること」である。これと対になる母性の本質は「包むこと」と言えるであろう。父はまず「このものたちに私は責 任を負う」という家族宣言をすることによって、自分の家族を他の家族から区分する。つまり「内と外とを分かつ」。このことを指して「社会的父性」の宣言と いう。
第二に父は、正と邪を区切る。掟をしき、ルール(規範)を守ることを家族メンバーに指示するのは父の仕事である。「父性原理」という言葉は、この機能を指 していう。父は世の掟の体現者としてこの仕事を行うから、家族という閉鎖空間に世の中の風を送り込むという役割を果たすことにもなる。
父の仕事の三番目は、母子の癒着を断つこと、親たちと子どもたちの間を明確に区切ることである。父を名乗る男は、妻と呼ばれる女を、何よりも、誰よりも大 切にするという形で、この仕事を果たし、子どもは父のこの仕事によって、母親という子宮に回帰する誘惑を断念することが出来る。この仕事のもう一つの側面 は、母という絶対者の価値を相対化するという意味を持つ。子どもに耽溺する母が、その価値観を子どもに押し付けようとするとき、別の価値観を提示すること によって子どもを母の侵入から守るのは父の仕事である。
-以上引用終わり-
斎藤氏の以上の主張も本質的に他と変わるところはないと思われるので、これに基づいて検討してみよう。社会的父性という点は、自分の家族責任を持つ、とい うことであるから、それはそれで良いであろう。斎藤氏がいう「父の仕事」の具体例である、第二点から問題となる。「正と邪を区切る」ということは、これま でに述べた「善・悪の判断」と同じである。
さて、掟やルールを守ることを教えるのは父の仕事であろうか? 掟やルールというものは、母にエロスの甘えを求めているときから出現するもので、「お兄 ちゃんだから、ちょっと待ってね?」とか「お母さんは今は疲れているから、ちょっと待ってね?」とか、あるいは、必要以上に駄々をこねて叱られたり叩かれ たり、色々なことが行われるのである。このエロスの甘えを母が充足させるとき、母も完璧な母性(受容力)を有する人間ではないので、充足不能な事態が発生 する。そのようなときに、母親はルールや掟を教えるはずである。ルールを子が守らねば、怖い母親に変身して、子を従わせようとするであろう。
このようにして培っていったエロスの甘えを充足させるためのルールや掟は、やがては言語機能の発達と共に、また、所属・愛情欲求に基づく「甘え」の行動の 発現と共に、母から他者へ移行するわけである。そのときにロゴスによる「甘え」の充足が重要な働きをするようになる。前稿で述べたように、ここで理性(ロ ゴス機能によって習得したもの)と感情(エロス機能によって習得したもの)が一致しなければ、子は混乱してしまうこととなる。
第三の「母親との癒着を断つ」ということも、再度、問題である。これが真理であるのならば、母子家庭や施設で育った子は、極端に言えば、夢を持てないこと となってしまう。なぜ、このようになってしまっているのか? ここに、西洋心理学の大きな弊害があるように思えてならない。
西洋諸国で生まれた心理学は、当然のことながら、西洋の生活様式を反映している。夜になると子は母を父に取られる、あるいは、母は子を捨てて父をとる。エ ディプス・コンプレックスが発生する。ここで、子は母に甘えられない心意を持ちながら成長する。これは成人後も当然あるわけで、男の子は結婚して、これを 妻に投影することとなる。妻が母として子を可愛がるとき、これに嫉妬を感じてもおかしくない状況になる。このことは、次のような事例から知れる。
沖縄県は、特に女性は、長寿世界一で有名であり、諸外国から研究者が訪れる。西洋諸国からの研究者(複数)が沖縄に住み、沖縄女性を好きになり、結婚した い、ということになった。私は、子育ての文化の違いを説明した。特に、夜、家族が寝るときの習慣を。すると、「う~ん」とうなって考え込んでしまった。夜 寝るときに夫婦の間に赤ちゃんがいるのは信じられない、というのである。その結果、これが原因で、結婚はご破算になってしまったことがある。
同様に、沖縄県には極東最大の米軍基地がある。したがって、沖縄女性と結婚に至るアメリカ人も結構いる。メリーランド大学アジア校(嘉手納基地内)で講義 をするとき、このような生活習慣の違いを述べることがあるが、これを知ったアメリカ人学生はかなり躊躇する。このようなことを知らずに結婚した人は、沖縄 人女性がアメリカ人男性に生活習慣を合わせることで、問題は発生していないようだ。しかし、このような文化の違いを知らずに結婚した沖縄女性は、子供がで きたときから、やはり悩むというか、考え込んでしまうようである。また、子の躾が厳しく、そのために、非常に苦痛を覚える人もいる。
アメリカの子供の躾が日本に比べて厳しい、ということは一般的にいわれることである。なぜ、厳しくせねばならないか? それは、エロスの甘えが日本ほど十 分に充足されないアメリカの生活では、子は母に甘えたくても甘えられない状況に、特に夜は置かれるわけで、日本人よりもアメリカ人は拗ねて、僻んで、恨ん で、ふてくされて、やけくそ二なる心意が強いわけである。これは「わがまま」にもつながるもので、ここに母性は機能し得ない生活習慣であるので、いきお い、父性による統治が行われる必要があると考えられる。しかも、前稿に述べたように、アメリカ人が父性を発揮するには、「力」の行使を行うことを前提に置 かないと、事態は収め難いであろうことは容易に想像できるであろう。
本稿での斎藤氏の引用文の冒頭で「叱れない父」がでてきた。氏によれば、父の仕事として「内と外を分かつ」というのがある。そして、それが「社会的父性」の宣言であると。子の「内と外を分かつ」という能力の養成は、果たしてほんとうに父の仕事なのであろうか?
「内と外を分かつ」ということを「身内と他人を区別する」という意味にとれば、それは「意識」的に行われるものではなく、無意識的に、あるいは情緒的に行 われるものである(意識的に行うことに対して異議を唱えているわけではないことに注意して欲しい)。身内と他人の識別は、普通、条件母性反射の成立に由来 する「人見知り」によるものである。これまでに述べてきたように、エロスの甘えを母に求め、充足されるにしたがって、言語機能の発達と共に、ロゴスの甘え を他者に求めるようになるのである。
ロゴスの甘えを他者に求めるとき、例えば、非行少年・少女はお互いに気持ちが分かり合えるからといって、つるむ傾向にあることはよく経験される。これは、 エロスの甘えが不足し、それを補おうとしてロゴスの甘えを求めた結果、何某かの共感を呼び、以降は互いにエロスの甘えを充足し合う、という関係である。親 からすれば、あんなこと付き合うのが悪い!などといって友人関係を切り離そうとしたりするが(父性の行使)、なかなかうまくいくものではない。
互いに甘えられる者同士が「内」であり「身内」である。また、互いに甘えられない者同士は「外」であり「他人」である。(註 互いにと甘えることは許され ないけれども、関係を大切にしなければならない場合は「義理」である{註2})。内と外の区別は「甘えられるかどうか」であって、それは父の仕事あるいは 父性の仕事となるべきものではなく、第一義的には母の仕事あるいは母性の仕事なのである。
以上のような心性ができあがっているところへ、それを言語で表現し互いに意志疎通が可能なように持っていくことができればよい。つまり、エロス的な「内と 外の区別」がなされているところへ、ロゴスてきな区別がなされるようになり、それが「意識」されて健全に機能するようになる、というものではないだろう か。このように考えてみると、「父性」なるものの機能は、やはり「切断」や「区切り」ではなく、「接続」であると考えられるのである。
父性の機能が「接続」であると主張する著者の見解は、これまでに述べたような、河合、林、斎藤各氏に限らず、この点においては現代の心理学関係者は「切 断」や「区切り」なる見解であると考えて良いように思われる。なぜ、このようになるのか? これは、西洋心理学・文化の影響であると同時に、日本的な概念 である「甘やかし」の概念の欠如があるためだと考えられる。次に「甘やかし」について述べておこう。
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註1 斎藤学:
http://www.iff.co.jp/mssg/mssg9.html
註2 土居健郎:「甘え」の構造、弘文堂、東京、1971年。
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