2005年1月22日:初出し
2008年(平成20年)4月15日(火):旧ブログより移動
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フェ ミニズムは、わが国においてジェンダーフリーという用語を用いて、女性の社会進出に大きな役割を果たしてきたと言えよう。ところが、このジェンダーフリー という言葉は、いわゆるバックラッシュの嵐に遭遇することとなり、最近ではジェンダーバイアスフリーという言葉になり、また最終的には「男女平等」という 言葉に置き換えられているようだ。
その趣旨の本質は、性別そのことだけが理由となって差別を受けない、性別にこだわることにより本来持っているはずの能力を未開発に終わらせない、といったことであろう。そして、人が自分の特性に応じた多様な生き方を実現し保証できるようにしようというものであった。
ここで、もう一度、ジェンダーフリーの視点から問題を考えてみるのも面白いだろう。これはgender-freeという英語をカタカナ表記したものだと考 えるならば、それは、tax-freeやbarrier-freeといった語と同様に、性差を無くす事の意味にしかならない。しかし、本質的に意図されて いたものは、「性別にこだわらない、性別という縛りから自由になる」というものである。性別にこだわらない、その縛りから自由になる、という状態を心理的 に考えてみよう。この問題は、従来は社会学的な視点からしか考えられていなかったので、それなりの意義がありかつ重要なことだと考えられるからだ。
「性別」が、その人にとって重大な意味を持つようになるのは、相手が存在し、相手との関係を持つときだけのことであることを前提にする必要がある。自分だ けが切り離されて孤立している状態では、性別には意味はないと考えてよいだろう。もちろん、自分の体に生じる現象の知識は必要であろうけれども、ジェン ダーつまり「らしさ」は全く気にする必要などはないであろう。「らしさ」は人間関係において意味を持つものなのである。すると、次のような場合分けが存在 する。
(1) 相手は「らしさ」を気にしないのに、自分は気にする。
(2) 相手は「らしさ」を気にしないし、自分も気にしない。
(3) 相手は「らしさ」を気にし、自分も気にする。
(4) 相手は「らしさ」を気にするが、自分は気にしない。
「らしさ」が問題になるとき、葛藤が生じるのは、(1)と(4)の場合であり、(2)と(3)の場合には問題はない。ただし、ここでは仮に、「らしさ」に 関する価値観は同一としておき、後で論じることとする。大切なことは、「らしさ」を気にする人達、気にしたくない人達が混在するという現実だ。多様な生き 方が可能な社会であるほうが気楽であることは間違いないであろう。
「らしさ」は伝統的に求められてきたものである。ところで、何故に人は「らしさ」を求めることがあるのだろうか?
例えば、医者が医者らしくするには、白衣をまとい、聴診器を持ち、それなりの言葉を使い、・・・、といったことがある。それらがないとどうなるか?え?この人は本当に医者か?という不安を与えてしまう。本人がいくら医者として自信を持っていたとしてもだ。手術中におたおたしてしまうようでは『らしくない』のは当然だ。つまり、『らしさ』というのは、相手に信頼感を与える要素のひとつなのであることになる。「らしさ」は、お互いがまだお互いを知らない状態において、非常に有用な情報であるといえよう。.知ってしまえば、もうそのようにあえて振舞うと、かえって胡散臭くなってしまうが(^^;
同様に、男らしさ、女らしさも同様ではないだろうか。
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