2004/9/30
2004年9月30日:初出し
2008年(平成20年)4月13日:旧ブログより移動
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世間の目(1)に おいて、日本人は、所属・愛情欲求を充足させようとすることが多く、これがいわゆる「世間の目」につながるものであることを述べた。これはいわゆる「ウ チ」と「ソト」の概念にも関連するものと思われる。ここで言う「ウチ」は自分が所属している組織、団体や機関などを指し、所属していないそれらが「ソト」 である。「世間の目」は「ソト」から見た「ウチ」がどう評価されるかを意識する概念であると考えられる。
このあたりを少し発達心理的に考えてみる。
未就学児童にとっては「家庭」が「ウチ」であろう。その他は「ソト」である。学校に行くようになると、学校も「ウチ」になってくる。仕事をするようになる と、職場も「ウチ」になってくる。「ウチ」というのは、このように、どんどん広がっていくものだ。そして「ウチ」に入らないものが、当然「ソト」である。 この様子を少し細かく見てみよう。
子の生理的欲求、安全欲求がある程度充足されるようになると、所属・愛情欲求が自然に発現する。第一義的には条件母性反射が成立している母親がその対象で ある。この段階では、母親との関係が子にとっての「ウチ」であり、他は「ソト」である。母親が好きなものには自分も関心を示すようになり、父や同胞なども 「ウチ」として取り込んでいく。躾などにおいて、「そんな事をしたらお父さんに言いつけますよ!」といったことが頻繁に起こると、父親が子の「ウチ」に取 り込まれるのは遅れてしまうようである。「ソト」として利用されるのは、おまわりさんなどは一般的であるが、地域によっては悪いことに対する罰を与える存 在のものが色々あるようだ。秋田県の「なまはげ」などは良い例ではなかろうか。
自分が所属する相手から認められ愛されることが相互に行われることで「ウチ」が形成される。これはいわゆる「仲間」であり、「共同体」である。共同体にお いては、自他の区別が明確でないという特徴がある。互いに甘えることができる存在として同一化している面があるからだ。こうなると、ある人に仲間と異なっ た面が出てくると、問題が発生するようになったりする。
その異なった面が多くの仲間にとって都合がよいときには、一見するだけだと、良い関係になりそうである。しかし「嫉妬」の感情が生じてしまい、どうしても 足を引っ張られてしまうことが多いようだ(嫉妬:甘えたくても甘えられない状態にある人が、甘えられる人や甘えている人を見たときに生じる嫌悪の感情 by MataYan)。抜きん出た者が嫉妬されると、その者とは所属・愛情欲求は充足されなくなるので、その者は「ウチ」から「ソト」に立場が転じてしまうこ とになる。異なった面が多くの仲間にとって都合が悪いものであるときには、当然と言って良いほど、仲間から排斥されるようになる。そして同様に「ソト」の 立場に追いやられることとなる。
以上のように考えると、世間の目という概念がある共同体では、仲間から離れすぎることはタブーであることになる。そして、そのそのような社会では、可もなく不可もなく、まあ、いいではないか、といった感覚になってしまうと考えられる。
ところが、人間の感覚は神経細胞によって機能しているが、神経細胞は本質的には「微分」作用を持つようだ。つまり神経細胞は物事の「差」に反応する性質を 持っているのだ。共同体では「差」が発生すると排斥されるということになるので、逆に言えば、すべてがマンネリ化してしまうという状況になりかねない。田 舎に住んでいると、何とも言えない息苦しさを覚えることがあるが、そんなことがあるためではないのだろうか。しかし、所属・愛情欲求がなかなか充足されが たい都会生活に疲れたものにとっては、このような共同体というのは「癒しの場」として機能するようである。
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