2004年10月1日:初出し
2008年(平成20年)4月13日(日):旧ブログより移動
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世 間の目(1)において、西欧人は、越行によって承認欲求が現れ、また退行によって生理的欲求が代理欲求として現れやすいことを述べた。これは個人の自己主 張を認めよ!という心意であるから、したがって、日本人のような「世間の目」はあまり機能しないことが考えられる。ということは、「世間の目」があるゆえ に「恥」をかくことを恐れて、その結果、倫理や道徳なるものが自然に形成されていく原動力のようなものが、西欧人には成立しにくいということになる。
では西欧において、日本の「世間の目」に代わるものはなんだろうか。あるのだろうか。
西欧では、承認欲求が代理欲求として現れていると考えられる。これは、がむしゃらに自分が認められたいという心意である。その背景には安全欲求のみ充足に よる不安が大きく渦巻いていると考えてよい。このような人たちが大勢集まると、自己主張だけでまとまるものもまとまらないと考えられる。
ところで、安全欲求が未充足の場合には「
二値思考」 に陥りやすいものである。この思考法では、自分が正しいと思うには相手が間違っているとなるし、相手が正しいとなると自分が間違っているといったように、 全か無かのどちらかしかでないのである。このような社会では、自分よりも絶対的に優れた人に対しては、従属してしまいやすい性質を持つと考えられる。特 に、その優れた人が自分達の安全欲求をも充足させてくれる存在であるときに。もちろん、優れた人は崇められることによって、その承認欲求を充足させること となる。これは一神教社会を思わせる構造である。
このことは、日本に於ける「世間の目」は、西欧においては唯一絶対神による「神の目」に相当するのではないかと考えられることを表すのではないだろうか。 ここでの神は人智を超えた存在であり、到底通常の人間が到達することはできない存在のものを言うことになる。神と自分を比較すると、神は「善」であり、自 分たちは「悪」となり、神を恐れて従う僕となり、しかし、それと引き換えに安全欲求の充足を得るという構造になるのではないだろうか。これはいわゆる共依 存常態であるとも言えよう。
日本においては「世間の目」を気にすることで、「恥」をかかないような倫理・道徳観が生まれ、西欧においては、「神の目」による、善悪の判断による「罰」を受けないような倫理・道徳観が生まれるのではないかと考えられる。
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