我々がある種の行為をするとき、その行為に常に快感もしくは不快感が伴うとき、ちょうど行為に「甘え」の感情が付着するように、その行為に快・不快の感情 が伴うようになると考えられる。例えば、いつも「勉強せよ!」とガミガミ言われておれば、勉強するという行為に不快感を伴うようになる。不快感は払拭した い感情であるから、結局は勉強嫌いになってしまう。逆に、ある行為に対し快感を伴うようなことが行われれば、その行為は止め処もなく行われたりするもの だ。そこにも心理的充足感の問題は付きまとうであろうけれども、これはまた別途考えてみよう。このあたりは行動主義心理学と人間性心理学の結合の問題であ ろう。
あることを行うときに、常に不快感もしくは快感が伴うようなことがあれば、その行為と感情が結合されると考えられるわけだけれども、これは条件反射で有名なパブロフの犬の場合とはちょうど逆の関係にある。パブロフの犬は、食事という行為のたびにベルの音を聞かされ、やがてはベルの音がすれば食事と関連するよだれが出てきたというものだ。
食事は、無理に食べさせられるのでなければ、食欲という基本的欲求を充足させる行為とともに「快感」を覚えるものであろうことは経験的にも理解できる。不快感を覚え、それを払拭させたいときなど、食事をとるという行為を通して、それに付着している快感を得ようとすることも考えられる。これは不快感が持続する限り食事を取るという行動になると考えられ、空腹だから食事を取る、満腹だから食事をやめる、という生物の基本とは反することになる。これは過食症のような状態ではないかと考えられる。
いつも母にいつもきつく叱られて恐怖感を覚えておれば、やがては母に恐怖感が付着する。すると、恐怖を覚えれば母の姿を感じ、母がおれば恐怖を覚え、といったように、母=恐怖、になってしまう・・・。
ところで、基本的欲求の充足は、人間の生存には必要f可決であり、それを充足しようとしているときには快感を覚えるような状況であることが必要なのではないだろうか。
まぶい分析学では、基本的欲求の充足とともに基本的欲求に基づく甘えの心意も充足させる必要があると考える。甘えたい気持ちが充足されるとき、そこはかとない快感が生じることは多くの方が経験を通して理解されよう。甘えたい気持ちが充足されないとき(甘えたくても甘えられない)は、不快感(拗ね、僻み、恨み、不貞腐れ、自棄糞)が現れる。このように考えると、基本的欲求を充足させるとき、その人の状況によっては、甘えが充足される、あるいはされないという環境があることが分る。前者は快感を、後者は不快感を覚えさせられるものだ。
例えば、
人中で食べる、で考えたように、「食べる」と言う好意には「甘え」の感情が付着しているのが普通であるから、そして、甘えている姿を他人にみられるときには「恥ずかしさ」という不快感を覚えるから、その行為は自然に抑制されると考えられる。また、食べるという好意に甘えるということが付着していなければ、恥ずかしいという感情が出てこないので、人中でも我関せずで自分の欲求充足が可能である。
「褒められたい、認められたい」というのも基本的欲求であり、それは、承認欲求と呼ばれるが、この欲求と甘えの関係を考えてみよう。我々は、いいことをした!と思うとき、人に褒められ認められれば嬉しさを覚えたりするが、これを自分で褒めて認めても、なんとも感じないであろう。むしろ、虚しさがあるだろう。つまり、この基本的欲求は他者に甘えることによって充足されるという快感を味わうことが出来るのだ。換言すれば、基本的欲求は他者によってしか充足されないのである。
認められたい、褒められたいと言う行動に甘えが伴っておれば、つまり母子関係がウヤチナギ・クヮチナギの状態で育ってきておれば、それを人前で見せるときには抑制的、控えめな行動として現れるはずである。甘えが充足されなかった中で育つと、それは、他の人から見ると、え?!そこまでやるの?!恥ずかしくてできないけど、よくできるなあ、えらいなあ(あるいはバカか)!といった感情を与えたりする行動となったりする。
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