沖縄の文化は「祖先崇拝」である。ところが本土では「先祖崇拝」のようだ。この違いは何だろうか? 国語辞典をみてみよう。
新辞林や大辞林、福武国語辞典などでは「先祖」と「祖先」の区別はなく同義である。しかし「祖先崇拝」という言葉はあるが「先祖崇拝」というものはないこ とに注意したい。しかし(^^;、辞書にはない「先祖崇拝」と言うことばを本土の人は好んで?自然に?使うのか、全く不思議であると同時に、これは何かも物語っているのではないかと、考え込んでしまうところである。ところが、ところが広辞苑では、「先祖」と「祖先」には明らかなニュアンスの違いがある。前者は特定の者を指し単数、後者は不特定多数の者を指し複 数なのである。
先祖を単数、祖先を複数と考えることには重大な意味がある。先祖崇拝であれば、(功績などのあった)特定の人にあやかる意味で、崇拝することになる。祖先 崇拝では不特定多数の先祖を崇拝することになる。その構造が全く異なることになるのだ。形式的には一神教と多神教の違いがあることになる。
先祖崇拝すなわち特定の人を崇拝の対象にするのは、キリスト教や仏教などを初めとした、いわゆる近代宗教(一神教)がその典型だ。これに対して祖先崇拝はアニミズム・多神教とみなしても良いものである。
前者では、人智を越えた超越絶対者(神)を崇拝しその教えを学ぶ。後者では、玉石混淆の不特定多数(原理的には全ての先祖)が崇拝の対象になるわけだ。後者では初めから崇拝する心意になれるものではない。
一般に子は親に反発したりするもので、極端な場合、憎悪の感情を持ったりする。ここで親の生育歴を調べる(ウサトゥイ(御悟)と呼ばれる)と「無理からぬ こと」として理解され感情が少し和らぐとともに、それは親の親へ移行する。今度は親の親をウサトゥイし、ということを先祖代々に渡って遡って続けていく。 この間、憎悪の感情が次第に緩和されていき、理解、同情、思いやり、と種々変化しながら最終的に「崇拝」になることがある。これは血筋正し(シジタダシ) と呼ばれるものだ。
沖縄文化としての祖先崇拝は、感情を浄化するための精神修養法である。国語辞典に先祖崇拝という語が見当たらないが、本土も基本的には同じなのかも知れな い。英語では、Ancestor Worship が先祖崇拝、Ancestors Worship が祖先崇拝となるでなろう、厳密には。もし皆様の身近に、Ancestors Worship のように言うアメリカ人がいるとき、それは私の教え子である。
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