古代大和文化が現在にも生きていると考えられる沖縄では、病院で亡くなると、そこに落ちた魂を亡くなった患者の家にまで運び、仏壇に安置させるという儀式 が行われる。これは患者の家族の者が遺体を運ぶのと同様にその人の霊をも運ぶというものである。まさに心身二元論の実践である! そのような儀式を行った 後のベッドには、心穏やかに横たわることが可能なようであることは、複数の経験者が語ってくれた。
心穏やかではいられないからといって、神道系や仏教系の宗教家を呼び、『御祓い』が行われたりするこもあるようだ。御祓いとは災厄を除くための儀式である (大辞林(Yahoo辞書))ということであるから、この場合は、亡くなった人の魂は災厄の素と考えていることになる。しかし、これには同意し難い。自分 が死んだときのことを考えても、自分の霊が厄介者として祓われることを想定するのは、どうも気持ちの良いことではないのではないだろうか。
霊の実体があるとするとなおさらだ。その場所から祓われてしまっては、どこに行ったら良いのかさ迷ってしまうだろう。やはり、古代大和式に、行くべきとこ ろに連れて行って安置するという考え方が一番しっくりとするものだ。それを行ってくれる人に対しては感謝の念さえ芽生えよう。そうでなければ、さ迷いなが ら場合によっては恨みの念さえ生まれてくるのではないだろうか。
異国に住んでいるときなども、その人が亡くなると遺体を母国に運ぶということが行われる。ハーバード大学の講師をしているアメリカ・インディアンも、同様 のことを行う文化があることを教えてくれた。このとき、亡くなった場所に落ちているその人の霊も同時に運ぶということが共通していることが面白い。ここに も心身二元論の実践が見られる。
前に示した辞書が記述していることで、(3)や(5)の『神霊』などとの関連を示してみよう。
古代大和文化を現代に残す沖縄では『御嶽』と呼ばれる地が存在する。これは原始人類が生息したと考えられる地で、住居であると考えられる自然の洞窟と自然 の湧き水がセットになって存在する地である。日本文化の礎と考えられる祖先崇拝においては(祖先崇拝論(1)及び(2)を参照)、御嶽に居住していた人類 は『神』と呼ばれ、御嶽はまた『神地』とも呼ばれている。
御嶽には自然の湧き水があることからわかるように、その地はこんもりと木々が生い茂った杜である。この木々には民間伝承がある。『御嶽の木を切ると神罰が下る(祟りがある)』というものだ。
そんな民間伝承は、現代人には『そんな馬鹿な!』と一笑に付したい面があるが(笑)、なかなかそうも行かないのが現実である。実際、ある村の村長さんは地 域開発のために自らが率先して御嶽の地の木を切り倒したが、その直後、寝込んでしまったという話を本人の側近から直接聞いたことがある。こんな話は良く聞 くのである。また沖縄の在日米軍基地内にあるメリーランド大学で祖先崇拝学を講義していたときであるが、米軍の工兵隊が御嶽の地を地ならしするときなどに もそのようなことが発生したとい学生である兵士が言うのである。そのためかどうか、米軍基地内の御嶽の地は、そこだけちゃんと残されているのである。
以上のような『神罰』なるものの『影響力』は、果たして科学的というか学問的というか、そのような方法論で理解しうるものなのであろうか。試案としては、次のようなものを提唱している。
おそらく原始人類も、自然の湧き水がかれないためには木々が生い茂ることの必要性は理解していたのではないだろうか。山火事など、木が少なくなってしまえ ば、泉が枯れてしまうといったことを経験的に伝承していたのではないだろうか。このことを知っていると仮定すれば、御嶽の木々を無闇に伐ってしまうこと は、自分達の生存にかかわる重要な問題となるので『御嶽の木々を切ると神罰が下る』ということを次世代に言い残してきているのではないかと考えられる。
しかし、中にはやんちゃ坊主もいるであろうと思われる。木々を切ってしまう者も現れるであろう。しかし、幼少の頃から禁止事項として叩き込まれたことに対 して敢えて反抗するような行動をとるとき、少なからず心は痛むものであることは経験的にも言えることだ。ここで心身症を起こしてしまった人達もいるであろ うと考えられる。
そんなことが起こってしまえば、その伝承はまことしやかなもの、真実であるとして語り継がれるであろう。そして、ますます心の奥深くに禁止事項は叩き込まれていくことになるであろう。そして無意識化されていくであろう。
このような状態にあって、木々を切るという行為がなされると、心身症を発症しても、なんらおかしなことではないと考えられる。すなわち『神罰』なるものは存在するのである(^^
この手の神罰によって起こったものは、病院などでの治療がほとんど効を奏せず、困り果てた挙句に、ユタの指導により、そのようなことをしてしまったことを御嶽の神にお詫びに行くということで治癒しているという現実がある。