『霊』について辞書を引いてみる。大辞泉(Yahoo辞書)によると、
(1)人間や動物の体に宿って、心のはたらきをつかさどり、また肉体を離れても存在すると考えられる精神的実体。たましい。「―と肉との一致」
(2)死んだ人のたましい。みたま。「戦死者の―を慰める」「先祖の―をまつる」
(3)目に見えない不思議なはたらきをもつもの。神霊。
同様に大辞林(Yahoo辞書)では、
(4)肉体と独立して存在すると考えられる心の本体。また、死者の魂。霊魂。たま。「祖先の―を祭る」
(5)目に見えず、人知でははかりしれない不思議な働きのあるもの。神霊・山霊など。
似たような言葉として『霊魂』を調べると、大辞泉(Yahoo辞書)では、
(6)肉体と別に、それだけで一つの実体をもち、肉体から遊離したり、死後も存続することが可能と考えられている非物質的な存在。魂。魂魄(こんぱく)。
(7)人間の身体内に宿り、精神的活動の根源・原動力として考えられる存在。
同様に、大辞林(Yahoo辞書)では、
(8)肉体に宿ってそれを支配し、精神現象の根源となり、肉体が滅びても独立に存在することのできるもの。たましい。霊。
(9)未開宗教、特にアニミズムにおいて、無生物や動植物に宿る目に見えない存在。
ということである。以上のことからすれば、
71で述べたように、やはり『影響力』が各項目に通底している。であるならば、
『霊』=人の心に影響を与えることができる目に見えない力
と定義して良いようである。物理的な存在としての『霊』は、科学的には何とも言えない現状であるけれども、それはさしあたっては置いておくとして、この定 義そのものは有効であろう。そして、上記の(1)~(9)までがきちんと説明しうるようであれば、上記の霊の定義は満足できるものとして良いであろう。
たとえば『踏み絵』を考えてみよう。踏み絵とは、江戸時代、幕府がキリスト教禁止の手段として、長崎などで正月四日から八日まで、聖母マリアやキリスト像 を彫った木板・銅板などを踏ませて教徒でないことを証明させたこと、また、その像のことである(大辞林)。このマリアやキリストの像そのものは、木板や銅 板に刻まれた溝からなる物理的なものであるが、キリスト教徒にとってはそれを踏むということはできないほどに大変な影響力を持っているわけで、この意味で は、その像には聖母マリアやキリストの霊が存在すると考えてよい現象である。
これは上述の(1)の後半、肉体を離れても存在すると考えられる精神的実体の例であると考えられるし、その意味では(2)の死んだ人の魂であるとも言えよう。(4)はこれらと同様のことである。また(6)も同様であろう。
大 切な人の形見や思い出の品といったものを考えてみよう。その品と全く同型・同質の品があったとしても、それは形見や思い出の品とは異なるといって良いので はないだろうか。形見や思い出の品といったものは、それを見るたび、手に取るたびに、特別な感情がこみ上げてくるものである。このことは
で述べたことのうち、(1)の後半部分の肉体を離れても存在すると考えられる精神的実体、(2)の死んだ人のたましい、あるいは(9)無生物や動植物に宿る目に見えない存在、といったことと関連しよう。
また、次のような経験は、ほとんどの方がお持ちではないだろうか。定期的に出席する会議や集会、大学などでの講義など、特に部屋の中での席が各出席者に事 前に割り当てられていないような場合、初めに座った席に次回以降も座る傾向が良く見られる。次第に、その『席』は、『俺の席』『お前の席』『アイツの 席』…といったように自然に決まっていくことが多い。そのうち、ある席が空くようになると、その席を使っていた人のことが思い出されたりする。
以上のことは、日本文化的には、人が良く使う場所には、その人の霊・魂が落ちていく、あるいは付着していくと考えている。使えば使うほど、それはより多量 になっていくと言われている。そして、その落ちた(あるいは付着した)霊・魂は本人を呼び寄せる力があるとされるのである。そのために、次回以降もその席 に座る人が多いというように考える。自分の経験でも、また他人の経験談でも、そのような席に座ることができれば『落ち着く』ということがあり、そうでない 席に座ればなんとなく『落ち着かない』といったことが良くあるものだ。何のことはない、犬などが行う、自分の縄張りを示すためにあちこちにオシッコをす る、ということを人間も自然に行っていることになる(笑)。
(続く)
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