恥知らず論・見せ見せ小父さんで 述べたように、人は、自分の「甘え」た姿を他者に見られると「恥ずかしさ」を覚えてしまう、という性質がある。恥ずかしさは一種の不快感である。したがっ て、そのような不快感を覚えるような行動はとりにくいものである。行動が「自然に」抑制されるわけだ。ここに、日本人の特性といわれる「恥の文化」という ものが成立する原点がありそうだ。まず、食事について考えてみる。
ある会合で、食事が皆に運ばれてきたとしよう。自分に配膳が済むと、いきなりそれを人に先駆けて食べよう などとすると「恥ずかしさ」を覚えて食べることができないことはないだろうか?そのような席では、幹事などが「皆さん、さあ、どうぞ」と言ってくれれば、 安心して食べられる。
ほんの時々でしかないが、そういった会合の中でも、先に(勝手に)食べることが平気な人がいる。「ん?!」とは思うが、まあ、その人が自分の身内であれ ば、「こらこら・・・」と注意したくなる(笑)。他人であれば、内心では「恥知らず!」と思いながらもそっとしておくことが多いようだ。あるいは、それが 全くの他人であれば、別に何の感情も呼び起こされない、といったこともある。
このような行動や感情の変化は何なのだろうか。
配膳途中に、自分のが来たからといって、まだの人を尻目に食べ始めるのは、「恥ずかしさ」を覚えてできないのが普通であろう。これは、「食べる」という行 為に「甘え」が付着しているためであると考えられる。「甘え」が付着していない人は、恥ずかしさを覚えないので「お先に失礼!」と言いながら、空腹感を充 足させる行動に出ることができるのである。
配膳途中ではあるが、幹事が「さあ、どんどんやってください」ということを皆に言えば、それは甘えることが許される場になるので「では!」として、恥ずかしさを強くは覚えずに、配膳がまだの仲間に対して多少の遠慮感を伴いながら、食べることができる。
自分ではなく、他人が食べるのを目撃する場合はどうだろうか。身内のものが他の人に先駆けて食べるようであれば、恥ずかしさを覚えて「こらこら」と言いたくなる心境になるであろう。これはなぜだろう。
身内というものは、他人と異なり、互いに甘えあう関係にあるものだ。「甘える」ということは、自分でできることであるが他人に頼むこと、である(
まぶい分析学問題第3問)。 これは、換言すれば、他人を自分自身の延長として使うことで、いうなれば「一体化」の心理である。つまり「身内」というのは、程度問題はあるが、相互に、 心理的に一体化した存在であるのだ。だから、身内の行動は、自分の行動と同じになってしまうのである。したがって、他人であっても「身内」であれば、その 行動は自分に「恥ずかしさ」を覚えさせるのである。
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