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◎子供を甘やかしてはいけないといいますが、甘やかすの意味やその程度は、各家庭の...
子供を甘やかしてはいけないといいますが、甘やかすの意味やその程度は、各家庭の環境や方針により異なるように思います。子供に対する愛情と甘やかすことの線引き、違いは、日常生活の中でどういった場面なのかなと思うことがあります。子供が自立するよう、親が子離れしなければいけませんね。
私は父親で、中学生の息子と二人で生活してますし、息子が病気治療することもあり、愛情を持って育てているつもりですが、客観的に甘やかしている場面は、どんな時なのか、二人で生活していると、指摘されることもありません。本を読んで、甘やかしてはいないか、チェックするぐらいでしょうか。
ベストアンサーに選ばれた回答
◎難しいですね。
母親なら、よそ様の話を聞く機会も多々あり「人の振り見て我が振りなおせ」って出来ますけど、
なかなかそういう機会が持ちにくいでしょうね。
これはその通りでしょうね・・・
合っているかどうかは、分からないけど、私の考えは、「出来る事は、させる」です。
きちんと概念を確立することが望まれますね。「甘える」ということは、自分で出来る
ことを他者に依頼する気持ちです。ですから、「出来る事はさせる」を一貫しますと
「甘えさせない」ということになってしまいます。
洗濯物が干せる年齢ならさせるし→息子、娘関係なしに、小学校からさせてます。
自分の靴を洗う、部屋の掃除、ご飯を炊く・・・できない事を無理強いさせるつもりはないけど出来ることはたくさんありますよね。
特に食べる事は大切です。 私も母1人で育てているので、私に何かあったときのために兄弟で協力しあってできるように育てるのが私の責任だと思っています。
自分の事が出来るようになると、自分の分だけでなく、「出来る者が出来る事を」に変えていきます。
時間的に息子さんより、お父さんの方が余裕があれば、お父さんがすればいいしお父さんの帰りが遅い時は、息子さんが洗濯物を取り入れ、風呂をして、ご飯の用意をする。
そういう事を一切しなければ、小遣いや欲しい物は与えません。
もちろん思春期だし、色々疲れもあるだろうから、完璧は無理だろうけど、そこは大目に見て→ここが甘えの部分でしょうか。
普段、甘えてこない長男(高校生の時)が、熱があるから病院に「連れて行って。」と頼んできたので、連れていくと周りの人に「甘いね。」と言われました。私なりに、普段は構ってないし、甘えてこないのに、頼んでくるのはよっぽどの事だろうと思っています。
「甘いね」という周りの人、ダイジョウブかな(^^;
誰だって甘えたくなるものですよ。
本やテレビなどを見て、反面教師にさせてもらうという方法もあるし自分の事を振り返って「こんな親にはなりたくない」という、気持ちでも接しています。そう思っても、嫌だと思っても親のような躾をしてるんですよね。
甘やかすのは、悪いとは思いませんよ。だって甘えるのって親しかいないでしょ。家が逃げ場なんですからね。
「なぁなぁお父さん、ちょっとこれやって欲しいんだけど」って、息子さんが言える空間を作ってあげるのがよい程度の甘えだと思うんですけど。
甘えるのって親しかいない、それを甘やかすというと、もう間違っています。
甘えてきたときにそれを受け入れるのが甘えさせることになるのですが、
その「甘え」が本心からの要求であれば甘えさせることになり、
見掛けの要求、本心からの要求ではないときの甘えを受け入れると
甘やかしになるわけです。
私は厳しくしすぎたと反省しています。
ちょっと厳しいような印象を受けますね(^^;
でも、子育てご苦労様です(^^
漠然とした回答ですいません。
質問した人からのコメント
◎皆さまのご回答は,私には大変参考になりかつ勉強になりました.
息子には,もう少し家事の手伝いをさせたほうがよいように思いました.出来ることはさせないと駄目ですね.「出来る者が出来る事を」・・を子供と話してみたいと思います.ありがとうございました.
このとき、親が子供に甘えてしまう結果にならないかどうかが心配ですね。
ベストアンサー以外の回答
◎私は甘やかすの反対は、厳しくする、叱るという短絡的なことではないと考えます。「伝えるべきことを伝え」「やるべきことをやる」それを基本に考えるようにしています。解りやすい例えで言えば、ファミレスなどのソファで土足で遊んでる子どもを、放置する親→甘い。叱る親→厳しい。ですが、見ているとファミレスの店員さんに謝っている人は見たことありません。まずは「やるべきこと」は、店員さんに謝って、ソファを拭くことじゃないかな?って見てて思います。厳しく叱ってもソファは綺麗になりませんから。子どもにちゃんと「それはしてはいけない」ことを「伝え」、子ども自ら店員さんに謝って、出来れば自分で拭くくらいのことをさせる(店員さんは大抵「いいですよ~^^」っていいますが・・・)
甘やかす、ということと甘えさせるということが混同されているように見えます。
例えの話ですが、以上を会話にすると、叱るわけでも甘やかすわけでもなく、自立を促すことが出来ると思いませんか?「椅子が汚れるから、そこに乗ったらダメよ。店員さんにごめんなさいして、綺麗にしようね。」って、そうすると、子どもは自分が汚したら自分が謝って、綺麗にしなければならないことを学習して、土足で乗らなくなります(あとで大変な思いをするのは自分自身ですから)。厳しく叱るよりずっと効果的ですし、そういうことがいろんな場面で出てくれば、その時なりの責任の取り方→自立心もおのずと培われると思います。
甘やかす、厳しくする、ということに囚われることなく、ちゃんと伝えるべきこと、やらなければいけないことへと導いていくことを考えて子育て出来ればいいなと、私は考えて居ます。
そうですね。それは甘やかすこととも、厳しくすることとも、基本的には無関係ですね。
でも、そのようにしようとしたときに、結果的に甘やかすことになったり、厳しくしたり
することになるようですね。
◎人間として生まれて来た以上は自分の力で生き抜く覚悟が必要ですが、息子や娘の自立の手助けと称して過保護に陥りやすいものです。例えば、大学を卒業した子供のフリーター生活を放任するばかりか数十万の金を与えて自由奔放な暮らしをさせるなどは甘やかすと云うべきかも知れません、厳しく育てるのも愛情なら、手助けしてやるのも愛情ですから一概に良し悪しや正悪の判断は出来ないかも知れませんが世間の常識から逸脱した場合を境に意味や程度が問題視されるのだと思います。子供に対する真の手助けの度合いが問われます。人間に拘ることなく、他の生物の生き様を知ることから、自立の精神を理解することも可能です。二人の生活では、頼ったり頼られたりして、幸せを感じますが、生温い幸せは、厳しさの中の幸せに比べたとき甘えの枠の内かも知れません。
過保護というのは、相手の気持ちを先読みして世話することです。それが続くと、
自分の気持ちを言語化できなくなりますから、社会的うまく行動できなくなって
しまいます。また、甘やかしというのは、本音の欲求(基本的欲求)に基づく甘えを
受容するのでなく、見かけの欲求(代理欲求)を受容することです。
人間は、「自立」というよりも「自律」が大切かと思います。個人で生きることは不可能で、
どこかで誰かに依存し、依存されているものです。
(引用終了)
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