2004年7月19日:初出し
2008年(平成20年)4月6日(日):旧ブログより移動
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わが国の民俗では「霊」の概念は広くいきわたっている。心霊写真やらなんやらは漫画にも良く現れ、人気を博しているようだ。しかし、この「霊」なるものは、科学的に取り扱うことができるものなのだろうか。
「霊」の物理的実体に関する議論はさておき、仮に存在するものとして、その機能的な面に着目するならば、次のように定義できるものではないだろうか。
霊=人の心に影響を与える力
と。
すると例えば、江戸時代に行われた「踏み絵」を考えてみると次のようになる。踏み絵は、物理的には、紙にキリスト像がみえるようにインクを撒き散らしたもの、である。しかし、キリスト教徒にとっては、自分の命と引き換えになっても、それを踏みつけることはできないほどに多大な影響力を持つ場合がある。これが「霊」の働きである。
また、母親が急にいなくなったりすると、子供はパニックに陥ったりする(逆でも同じだろうけれども)。この意味では、母親にしろ子供にしろ、霊をもった存在であることになる。このように例示していけば、数限りなく可能である。
ところで、「霊」は「たましい」でもあろう。「たましい」は、古代大和語(沖縄語)では「マブイ」と呼ばれる。このマブイは、次の性質を持つものとされる。
(1)それを落とすと病気になる
(2)病気を治すには落ちたそれを拾う必要がある
(3)それがあれば病気になりにくい
このような性質は多くの場合には無視されたり、迷信であるとされたりしがちである。ところが、アブラハム・マズローの心理学の基本概念であるところの「基本的欲求」の定義と全く同じであるのは驚きである。
いうなれば、霊=たましい=基本的欲求 であったのだ。これは面白い発見ではないだろうか。ここに、民族医療として行われている種々の儀式は、ひょっとして、心理療法と同等(もしくはそれ以上)のものがあるのではないだろうか、という視点が得られるのである。