林道義のホームページというのがある。そこに「寸評」というコーナーがあり、色々な問題点の指摘を行っている。平成20年2月1日付の記事に、
お懐かしや大日向雅美氏の母性神話論というのがあった。いわゆる母性神話を否定するサヨク論者と肯定するウヨク論者の考え方の違いを述べている。
僕自身は、どちら側にも組する気はない。なぜなら、心理学としては、どちらの論もつまらないからである。その辺を、林道義氏の記事を利用させていただいて、何がつまらないのか、そういう心理相談は、本来はこうでないのか、という点を明らかにし、まぶい分析学の特徴を浮き彫り(になるかどうか(^^;)にしてみたい。
以下に寸評からの氏の記事を引用し、赤を入れるという形で試論を述べてみたい。議論の必要がない部分は、文字を小さくしておいた。
(引用ここから)
お懐かしや大日向雅美氏の母性神話論
久しぶりに大日向雅美氏の母性神話論が目にとまった。今でも彼女はいろいろな所で同じことを言っているのだろうが、このごろではあまり関心がないので、気にしていなかった。
『読売新聞』に「人生案内」という欄があり、普段はあまり読まないが、今日は「母性に欠けていた母が憎い」という相談に対して大日向雅美氏が答えているのが目にとまったので、何を言っているのかなと興味を引かれて読んでみた。
相談者は、自分が「子育てをしてみて、実は母に全く母性がなかったことに気付き母が憎くなってきました。」と書き出している。
「母はずぼらで、子育てに興味がなかったようです。幼いころに髪をとかしてもらった記憶はなく、初潮の時も不安を察してくれませんでした。熱を出しても「寝てたら」と言うだけ。出産の時も、友人の母は一晩中腰をさすっていたというのに、私の母はミカンを置いて帰ってしまいました。
経済的には恵まれていたので欲しいものは何でも買ってもらえました。ただ愛情や親子のふれあいがなかったのです。
母も老いてきて最近は私を頼るようになってきました。しかし、昔のことを恨みに思う気持ちが抑えられず、母のことを心配する気持ちになれないのです。こんな自分が嫌になります。」と訴えている。
実は、こういう形の訴えは、沖縄県では、結構多いように感じられる。それゆえに、この記事にコメントを付けることとしたとも言える。なぜかというと、共稼ぎをし、子育てはどちらかというとおざなりではあったが、努力の甲斐あって、後には経済的に恵まれた、という例は多いからだ。
これを読んで大日向氏は自分の娘から自分が非難されているような気持ちになったのではなかろうか。こう答えている。
「あなたは、母親はいついかなる時も慈愛に満ちて、完璧な子育てができるはずだという母性観にとらわれてはいないでしょうか ? 女性に一様に揺るぎない母性を求める考え方は今や神話にすぎないと指摘されるようになりましたが、信奉する人が多く、大勢の母親が苦しめられています。
相談者が母性観にとらわれているという考え自体がだめだろう。相談者は母に対する不満を述べているだけであり、それが相談者の母性観から出たものと考えるのは早計である。自分勝手に相手の状態を仮定しても相談としては意味がない。
母親も一人の人間。長所も欠点もあり、子どもの愛し方も人それぞれ異なるのです。精いっぱい愛しているつもりでも、子どもを傷つけていることもあるでしょう。あなたの理想の母親像は横において、産み育ててくれた人のあるがままの姿を受け入れる努力をしてみませんか。」
これは現実の母親についての現実の姿を述べるもので、これ自体はまちがっていない。そして、相談者がそのような母親を受け入れることが出来るようになることは、心理学的には重要であるので、特に問題ではないと考えられる。問題は、果たしてそのようなことを相談者に提供できるかどうかである。提供できねば、相談者として無責任といえる。
相も変わらぬ大日向節と言うべきか。この人は母性のない母親を弁護することしか考えていない。母性のない母親に育てられた子供の気持ちはまるで分かっていない。つまり相談者の立場から答えるのではなく、その母親の立場から答えてしまっている。これでは相談者に対する「人生案内」にはならないだろう。
相談者の母の立場から答えることも悪いこと、無益なこととはいえないだろう。これは相談者の心理状態で決まることであるから、立場の問題で云々することは無意味だろう。
しかも、その弁護の仕方にゴマカシがある。相談者の不満は、「髪をとかしてもらった記憶はない」「初潮の時も不安を察してくれなかった」「熱をだしても「寝てたら」と言うだけ」「出産の時もミカンを置いて帰ってしまった」というもの。こういう不満は、大日向氏によると「理想の母親像」「完璧な子育て」を求めていることにされてしまう。まるで逆ではないか。この人が求めているのは、母としての最低限の心遣いである。いったい、(経済的に貧しくて心の余裕もない、時間もないという場合は別として)幼い女児に髪をとかしてやったことのない母親がいるだろうか。出産のときにミカンを置いて帰ってしまうなどという母親がいるだろうか。いるとしたら、母としての最低の愛情もないと受け取られても仕方ないだろう。
この点は林氏の言の方が良いであろう。
この人は母に最高の理想像を求めているのではない。最低限の愛情を求めているのである。大日向氏の答えがまるで見当はずれであることは明らかであろう。
相談者は、母親に再考の理想像を求めているのではないということは林氏の言うとおりだろう。しかし、最低限の愛情を求めているというものでもないであろう。母親に可愛がってもらえなかったことへの不満、愚痴を言っているだけである。相談者の状態を、大日向氏も林氏もイデオロギーで捉えている。
私ならこういう趣旨の答えをする。
「あなたの恨みはもっともです。母に最低限の愛情を要求する権利は誰にもあります。」
これは答えとしてはどうだろうか?子を可愛がり切れない母親に対して可愛がることを要求しても、それはなかなかかなえられないだろう。それを『権利』と考えるのもいかがなものか。大人であれば権利を言うなら同時に義務も・・・である。自分も子を可愛がることができないから、このような苦悩を生じているのである。つまり、義務が履行できない状態なのである。
「あなたが母親のことを心配する気持ちになれないのも、もっともです。親子の関係や相互の愛情は、第一次的には親によって決められます。あなたが母親に愛情を感じられないのは、あなたには責任がありません。だから自分が嫌になる必要はさらさらありません。」
「そこで、問題になるのは、今の母との関係をどうするかです。」
「結論を言えば、基本的には、あなたのお母さんがあなたにしてくれた程度のことをしてあげればよいでしょう。」
「その場合、あなたのお母さんが、どういう家庭でどういう母親に育てられたのか、ということにも関心をもってほしいと思います。それを知った上で、あなたの気持ちにどういう変化がおとずれるかは、自然にまかせてみてはいかがでしょうか。お母さんを許す気持ちになるか、依然として憎んだままか、私はどちらでもよいと思います。いずれになっても、あなたには責任はありませんし、悪いところは一つもありません。」
「今のあなたにとって一番大切なことは、自分の子供に愛情を注ぎ、良い親子関係を築くことです。そうすれば、子供さんも豊かな愛情をもって応えてくれるでしょう。」
ここがナンセンスなのである。親に可愛がってもらえなかった人は自分が親になったときに自分の子を可愛がることができないのである。したがって、自分の子に愛情を注ぐということが難しいのである。単なる理想論を言っているのであり、これでは大日向氏が理想論を言っていると非難しうるものではない。同じアナの狢である。
こんな答えをする人間は回答者には選ばれないだろうな。
運がよければ回答者にはなれるかもしれないけれども、相談者が問題解決をすることにはつながらないだろう。
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