2008年(平成20年)1月23日(水) 旧ブログより加筆転載
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男はスケベな生き物である(笑)。しかし、このスケベさは、少なくとも現在のところは、人類の存続にとっては絶対必要不可欠である。しかしまた一方では、このスケベさが種々の性犯罪にも絡んでいる。このような点にかんがみ、まぶい分析学(日本文化の心理学と家族療法(MataYan心理学)では「男の子を正しいスケベであるように育てよう!」ということが大切な項目のひとつとなっている。
母親という「女」と毎日性交を行う男(息子)は、スケベではあっても、正しいスケベとは到底言えまい。しかし、性欲が強烈な若い時代においても母親との性交が行われないのが普通であるということは、何か本能めいたものの存在を感じはするけれども、しかし、現実には家庭内問題として発生することがあるということは「本能」ではないようにも示唆される。
母親と性交を行うことを考えてみると、なにやら得体の知れない嫌悪感というか憎悪感というか・・・が沸き起こる。このことについては、岸田秀和光大学教授も著書「ものぐさ精神分析」で、そのように言及している。何なのだろうか、この感情は。
子育ての本質(子の心に生じる不快感を会館に変える一連の作業)を母親が実践すると、条件母性反射が母親に対して成立するようになる。それが成立した証拠として、人見知りが発生するようになる。以後は、子はもっぱら母親に甘えるようになるわけだ。
このとき、男の子は異性である母親、つまり人種の異なる人間に甘えるわけだ。「甘え」の心理からいけば、異種の人間に甘えるということは、同種の人間に甘えるほどにはたやすくない。ここに独特の心理機制が存在すると考えられる。
男の子からすれば、「甘え」の対象である母親は母親であって「女」であって欲しくない、というものである。母親の「女」の部分を嫌悪する心理はアジャセ・コンプレックスと呼ばれる。インドのアジャセ王子の母親イダイケ王妃は、王から捨てられないようにと母としてアジャセの面倒を見るよりも、王の女としての立場をとったため、アジャセがおかしくなってしまったお話に由来するものだ。母親との性交を考えたときに、つまり母親を「女」として見たとき、なんともいえぬ嫌悪感を覚えるということは、このアジャセ・コンプレックスによるものであると考えられる。男の子からの母親に対する近親相姦禁忌であると考えられる。
ということは、母親を女としてみることができる心意というのは、母親が男の子にとって心理的には他人である場合だということになる。心理的に他人であるとはどういうことか。それは条件母性反射が成立しておらず、「甘え」の対象ではないということである。
母親が子の甘えの対象となっていない母子関係は、子育ての本質を母親が実践せず、他の人が実践した場合である。他の人というのは祖母であったり、保育士であったりということだ。臨床的にも、母親との心のつながりのないケースが問題を起こすのだ。
このことは、母親となったならば、子の健全な成長には、甘えの対象として存在することがきわめて重要であることを意味する。父親はその状況を実現しうるように協力することが大切であると考えられる。子は、母親が『女』に変身して自分を見捨てることになることを嫌悪するから、子供の前では男あるいはオス、女あるいはメスとしての姿は見せないほうがよいということだ。
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