セク・ハラは、セクシュアル・ハラスメント sexual harassment の略で、性的な嫌がらせのことである。それは、
労働や教育など、公的な文脈における社会関係において、他者を性的対象物におとしめるような行為を為すこと。特に、労働の場において、女性に対して、女性が望んでいない性的意味合いをもつ行為を、男性が行うこと。性的いやがらせ。性的脅迫。三省堂提供「大辞林 第二版」
である。(個人的でなく)社会的文脈において性的な言動をとるときの問題である。社会的文脈というのは、簡単に言えば、勤務時間中にということだ。勤務時間中に性的関係を持とうとするのは、両者(当該男女)が合意であろうがなかろうが、そもそもの勤務態度に問題があると言わねばならないだろう。しかし、多くの場合には、女性の人権問題として語られることが多い。しかし、実際には、発生件数は少なくとも、男性→女性 と決定的なものではなく、女性→男性 ありうるものなのだ。
以上のことを心理的問題として考えてみよう。
性的な言動というのは、心理的には、相手に対し心理的に一体化したいという「甘え」の感情の発露である。公的な場で「甘え」の感情を出すということは、通常では「恥ずかしさ」を伴うので、性的な言動や行為は抑圧されているのが普通である。
ところが、「恥知らず論」で述べているように、性的な言動に「甘え」が付着していない生い立ちを持つと、「恥ずかしさ」による抑圧が生じないので、言動が公的な場においても表面化しやすいということになる。これは男女に共通のことであると考えられる。
しかし、男が思春期以来経験する、<射精>-<性的快感を覚える>-<「男」であることの証として学習>という現象があり、これは繰り返し発生する現象であるから、この三つの要素は条件反射を形成すると考えられる(条件男性反射)。また、女は思春期以降、<月経>-<不快感>-<「女」であることの証として学習>という現象があり、この三つの要素も同様に条件反射を形成すると考えられる(条件女性反射)。ここには明らかな男女の違いが見られる。
男性は「男」を意識することで性的快感を覚えたい衝動に駆られる、という性質を持ち、それは快感であるので、日常生活において不快感を覚えることが多ければ、それを補償するかのように、衝動が強くなり、理性による統制を失ってしまうことがあると考えられる。これに対して、女性は「女」を意識すると不快感を伴うことになることが多いということになる。
以上の状態を考えると、恥知らずの心理状態に男女双方があるとき、男を意識することで快感を覚える男性の方が行動化しやすいということになる。社会的文脈における性的言動は、男性の方が女性よりも発生しやすいということになる。この意味では、セクハラは男性から女性に対して起こりやすいということなのだ。セクハラに関しては、以上のように根源的な男女の違いがあることに注意する必要がある。
「男」は、「女」が存在する場では、欲求不満という不快感を強く覚えれば覚えるほど、それを補償する衝動がこみ上げてくるような生き物である。このような状態において、男女が入り混じることは、男にとっては、何某かの目的に向かって邁進する(欲求不満を覚えやすい状態)ためには、「女」という存在は、それを妨げるような存在となりやすいわけだ。このようなことがあるため、男女七歳にして席を同じゅうせず、とか、女人禁制、といったことを文化として作りあげてきたのではないかと考えられる。
このようなことを考えると、セクハラ問題は単に法律的に定めるだけでは、どうもいけないような気がする。色々な問題が関係してくるが、少なくとも、男女双方が相互の心理をよく知る必要があると言えよう。「男」は「女」に対しては常に理性的であることの努力が必要であろうし、「女」は「女」として存在するだけで、「男」にとっては理性的集中を妨げる存在であることをに注意する必要がある。
セクハラ問題の発生を最小限に抑えるためには、公的な場では、男女を分けることが最も簡単なことではないだろうか。男女をどうしても一緒にしなければならないのであれば、そういったリスクを良く考えなければならない。闇雲な男女同席は、男を問題発生に追い込みながら男を取り締まる、といった不条理な状態になったりするのだ。女性にとっても同じであろう。
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