第一、ある種の能力が欠けているとき人間とは言えないなどと呼んでしまえば殆どみんなが人間ではなくなってしまう。昨今は差別問題論議が盛んであるが、差別廃止を詠う側が差別発言をするのはどの様なものか。
第二は、他者を根底から否定することは究極的には民族浄化につながる思想である。時代は異民族・異文化の混交状態で互いに尊重しあうことが望まれている。 従って色々な考え方を理解・受容し得るような社会環境造りが重要であって、これが研究者や大学人に果たされた使命ではないのだろうか。
以上のことからすれば、紹介された「男らしく女らしくは人権問題」とか「女も目覚めねばならない」というのは、人々に考えさせるきっかけを与える点では意 味があるが、それだけでしかない。別に男が目覚めているとも思えないし、女あるいは男らしく生きようと生きまいと自分の勝手である。
精神的存在としてだけの人間を考えれば男女の区別はあまり意味がない。しかし個人の精神的活動は天与の自分の肉体を通して外界と関係を持つ。そのときに は、男であること、女であることを知った上で行動しなければ、誤解を招くことが多い。「らしさ」や「役割」からの脱却は、かなり問題を伴う。
当初のフェミニズムは色々な面で新鮮に感じたが最近は疑問が多い。被差別意識に基づく女性の性役割解放と社会活動への参加が目標だから被差別意識を持たな い女性から見れば面倒な思想になる。私の研究に依れば、フェミニズムは家庭内葛藤で妻・母である女にストレスが集中するのを回避するための二つある選択肢 の一つでしかない。研究者・大学人として講演するときには、自分で得た方法論や思想の限界と効用をよくわきまえないと社会の暴走を助長することがある。
仮に西洋生まれのフェミニズムが我が国で暴走すればどうなるか。米国社会の特徴とも言える事象が発生する。すなわち甘えたくても甘えられない子の増加であ る。そんな状態に置かれると誰でも拗ねて、僻んで、恨んで、ふてくされて、自棄糞になってしまう。当然のように子供社会の治安は悪化する。その悪化は彼等 が大人になったときの社会にも当然持ち越される。
フェミニズム論に接する度に気になるのは、被差別意識むき出しの論理が殆どで、子育ての本質、男女の性行動の本質、家族の本質といったものが全く見当たら ない。フェミニストはそろそろ被差別意識から脱却しなければ、逆に差別を助長する側に回る。田嶋教授の発言もそんな例ではないのだろうか。
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