わが国ではカール・ロジャースの来談者中心療法(Client Centered Therapy)がよく指導され普及しているようだ。ロジャーズが主張した治療者の態度として、どんなカウンセリングにもあてはまるような基本的な原則がある。それは、①純粋性もしくは真実性(役割行動や防衛的態度をとらず、セラピストの感情とその表現が一致していること)、②共感的理解、③無条件の肯定的関心である。ロジャースはその初期には、クライエントに対し何をすべきかという指示しないことを特徴としていた(非指示療法)が、治療者の態度を重視する来談者中心療法へと変わっていった。クライエント自らが自己の内面や現在の事態を理解し、自ら決定するしていくのを助けることだ。
現実には、カウンセリングを受けたい、といって訪れる人達は、「話をとにかく聞いて欲しい」というのは少なく、「こんな問題を抱えているがどうすれば解決できるのだろうか?」というのがほとんどを占めている(筆者の場合)。これではロジャースの方法は役に立たない。非指示で、共感的理解、無条件の肯定と関心では、クライエントは「バカにするな!」と怒って帰ってしまう。実際、カウンセラーは話を「聞くだけ」しかしない、という文句が多い。
良く考えてみると、カウンセリングが必要な人というのは、親子関係の問題を抱えているもので、親子の関係さえ悪くなかったら、カウンセリングに来る必要は無いようにも思えるのである。いうなれば、カウンセラーは、クライエントにとっての理想的な親代わりを演じることにその本質があることになるのだろう。
ならば、親代わりのカウンセラーの養成というのは、ちょっとおかしな話であることになる。カウンセラーの教育というより、親を教育することのほうがより本質的ではないのだろうか。さもなくば、クライエントは増加するが、それに連れてカウンセラーも増加する、ということになる。これは現代の日本の状況でもあろう。しかし、これは赤痢菌を駆除することなく、赤痢の症状に対処する専門家の医師を育成するのと同じようなもので、患者と専門家の増加にしか寄与しないのだ。
まぶい分析学では、その対象は「親」となっているのが特徴である。親自身が家庭内で夫婦、親子関係の問題を解決しうるような能力を身につけることである。
以上のことが目的であるので、ロジャースの方法論とは正反対になってしまうことが多々ある。「どうすればいいのか?」と問われれば「それはこういうことだからこうしてみたらどうか」といった指示が行われる。また、理解・共感しただけでは済まされず、問題の原因の特定と対処法を伝授しなければならない。
このようなことを行ってきた経験からすると、その家庭内で考えて対処すべき事柄が、単に感情に任せてきた結果、問題として析出してしまう、というのが心の問題の本質的な部分ではないかとさえ思われるし、これは正しいのではないかと思われる。
要は、我々は人間として生きているのであるが、人間というものの性質を知らずに人間として生き、人間同士の関係を持っているといえる。自分や相手の基本的性質を知らずして、無知の状態であるわけなので、ブレーキやアクセルの働きや使いかたを知らずに自動車を運転するようなものなのだ。
まぶい分析学はこのような状態に対応しようとする心理学体系である。
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