中央日報社の鄭在淑(チョン・ジェスック)文化部次長の2004.10.19 の署名入り記事では、崇礼門は、
(引用ここから)
韓国の国宝第1号は、南大門(ナムデムン)だ。 国の宝物として、その価値が格別であり、国家が保護・管理を行なう1等の文化財だが、韓国が決めた国宝ではない。 日本による植民支配時代(1910~45年)だった1934年、朝鮮総督府が、朝鮮(チョソン、1390~1910)の主要文化財への保存令を下す際、指 定したものだ。 宝物・第1号の東大門(トンデムン)も同様である。 建築的な美が、それほど優れているとは思えない朝鮮王朝の一つの建築物を、5000年にわたる韓民族文化の最高の象徴に決めた日本帝国主義の本音がうかが える。
70年の歳月が流れる間、よその国が決めた国宝第1号を、皆が誇らしく思い、覚えていたわけではない。 特別な意志を持っている人々が、国宝第1号を変えよう、との意見を数回にかけて表明した。 植民地時代が残した一種の文化的烙印を、独立した後も額に押されたままの格好、だというそれらの主張は妥当だった。 だが、大韓民国の文化的自尊心を取り戻そうという進言は受け入れられなかった。
(引用ここまで)
であり、ありがたいものどころか厄介物扱いのようである。これからすると、今度の崇礼門の焼失は、韓国に対しては「本当に残念でしたね」とは言いがたいも のである。逆に、『良かったですね。その勇気ある一老人には敬意を表さねばなりませんね』ということになってしまう・・・。
韓国に対しては、このような例からも知れるように、どう考えていいのか分らないことが余りにも多い。
追
その記事のすぐ後には、国宝1号にはハングルにすべきだという氏の見解がある。その見解すら、え?え?え?となってしまうのである・・・。
普通には『え?韓国ってバカじゃないの?!』と言いたくなってしまうこのような現象は、まぶい分析学的には、次のように考えられる。
これは明らかに『まぶい落とし』の状態であり、その結果、二値思考状態に陥りながら、自己が成立するには他者を否定することからはじめねばならない、とい う精神構造(今回の場合は国家の精神的構造)になっているためである。このような構造は、たぶんに、国家(政府)が国民に知らせないでつんぼ桟敷にしてい ることが多い、あるいは多くはなくとも重大なことをごまかして伝えている、あるいは伝えていない、といった状態であると考えられる。第二次大戦中の大本営 発表のようなものか(笑)
そのような構造は、中国にも見られるわけで、反日国家とされるアジアの三つの国には、そのような共通の構造が見られる。
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