<span style="font-size:70%">2008年(平成20年)2月13日(水) 旧ブログより加筆訂正・転載(初掲載2004年8月13日)</span>
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筆者(本稿執筆時点で満57歳)が中学・高校のころは、男女が手をつないで町を歩く、ということには、憧れはあるものの(笑)、すごい羞恥心が沸いたものだった。とてもできなかった(^^; 数歩は離れないと、とてもとても(^^; しかし、現在の中学生や高校生は、それはさも当たり前のようであるかに行動している。
良し悪しは別として、このような現象は、いったい何に起因するものなのだろうか。世の中の移り変わりを心理的な面から考えるとき、ひとつの参考になるかもしれない。
甘えの構造の著書で知られた土居健郎元東京大学教授によれば、「恥ずかしさ」という感情は、自分の「甘え」を他者に見られる時に生じる感情である。ということは、我々が高校生のころは、「甘える」という感情が男女の中に存在したということであり、現代の高校生には、「甘える」という感情が希薄であるということになる。
まぶい分析学によれば、「甘える」という感情が発生する根源は、子育ての本質の実践であると考えられる。子育ての本質、すなわち、子の心に生じる不快感を除去し快感に変える一連の作業、を「母」が実践することで、条件母性反射が「母」に対して成立することになる。それ以降は、子はもっぱら「母」に甘えるのである。
実際、家庭においては、あるいは人目につかないところでは、子は母に甘えるものであるが、ここに第三者が存在するようになると「恥ずかしさ」を覚えてしまうようになる。つまり、社会的な場では、子は母に甘える姿を見せなくなるのが普通である。
以上のような現象は、普通に子育てを行っていると、当たり前のように観察されるようだ。これから言えることは次のようであろう。とてもお腹が空いているときには、形振りあたり構わず食べてしまうことが多いだろうけど、ある程度空腹感が減少して余裕が出ると、形振りあたり構わずというわけにはいかなくなる。これと同様に、甘えたい盛りであれば、形振りあたり構わず甘える行動が現れ、ある程度充足されるようになると、「恥ずかしさ」を覚えるようになると考えられるわけだ。定量的な研究ができればよいが、なかなか難しい。
すると、どうやら次のようになると考えられる。我々が若いころに覚えたあの恥ずかしさというのは、相手に対する「甘え」の感情があったということになる。これは親に甘えることがある程度は充足されているからこそ生じるものであろう。それに対して、現代の若者がそうでないということは、親に甘えることがあまりなされていないという事情が伺える。
昔と今では子供の親に対する要求(甘え)も、ずいぶんと異なっているといえる。親としても子供の要求(甘え)を受け止めるにも、限度があるというものだ。その辺の叙情が絡んでいるものと考えてよいのではないだろうか。
「男女の仲」を考えるのであれば、性的な関心・欲求も考慮に入れねばならないが、そのことは別項で論じることとする。
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