フロム(1900~1980)というドイツ生まれのアメリカの精神分析学者は、人間を"存在志向"のタイプと"所有志向"のタイプに分けました。フロムという人は、簡単に言えば、
- フロム【Erich Fromm】
[1900~1980]米国の精神分析学者・社会思想家。ドイツの生まれ。1934年、米国へ亡命。新フロイト派の代表者の一人で、社会的性格論を展開。著「自由からの逃走」など。
という人です(Yahoo辞書大辞林)。たまには、こんなこともまじめに考えてみようと思います(笑)。(まじめに考えるとお笑い的になってしまうのですが(笑))。
この二つのタイプは、実際、私達の身の回りにもいる、いる!といえますね。皆様の周りにも必ず(笑)。例えば、田舎へドライブに行き、美しい野生の草木を みると、「あ!きれいな花ね!また来てみようね!」という感じで、それをありのままにしておこうとするようなものが存在志向です。しかし、きれいな花を自 分が見つけたのだから、これは自分のものだとして摘んで持ち帰る人もいますが、これが所有指向です。
ボクが子供の頃は、街の家々には塀が基本的には無かったように記憶していますが、現代では、必ず塀があります。これは、フロムが指摘したように、現代の人 々は、存在志向から所有指向に変化してきている、ということの現われではないかと考えられます。ところで、この存在志向と所有志向は、まぶい分析学的に は、どういうものなのでしょうか。
『志向』というのは、
意識が一定の対象に向かうこと、あるいは、考えや気持ちがある方 向を目指すこと、です(Yahoo辞書大辞林)。これは別の言葉で言うならば、"こだわり"でもあり、程度問題ではありますが、"しがみつき"ということ にもなりましょう。まぶい分析学では、このような性向は、基本的欲求が充足されるのではなく代理欲求が充足されている状態である、と考えています。としま すと、存在志向は、物事が変化を起こさないことを望んでいる状態であり、所有志向は、自分の意識する対象などが、常に自分の傍にあることを望んでいる状態 であると考えられますね。
この二つの『志向』は、ともに『安全欲求』、『安全欲求に基づく甘え』に関連するものではないでしょうか。それは次のようなことから言えると思うのですが、どうでしょうか?
存在志向は、対象が変化してしまうことに不安を覚えるから『あるがまま』の状態を保持したいと望むのでしょう。また、所有志向は、現状では安全欲求、安全 欲求に基づく甘えが充足されずにいるので、これが所属・愛情欲求、所属・愛情欲求に基づく甘えに越行し、したがって、自分のものにしないと気が済まない、 ということなのだと思います。
では、なぜ、フロムが言うように、これが現代人では、存在志向から所有指向に変化しているのか?ということになるわけです。この辺は、フロムは指摘はして いますが、何ゆえにそのような変化が生じるのか?ということには言及していないと思います(というか、精神分析理論では言及不能であると思います)。
例えば、戦争や地域紛争などが多発するような状態では、自分自身の安全欲求、安全欲求に基づく甘えは、充足されるはずもありません。そのような状態では、 変化しない、ありのままの状態が持続すること自体に憧れが生じると考えられますし、人間の精神的成長でいうならば、安全欲求、安全欲求に基づく甘えを充足 している段階にあるといえるのではないでしょうか。こういう状態では、皆同じだから、という心理が働くと考えられます。こうであれば、耐乏生活も耐乏では ないと考えられます。それが当たり前という認識が一般にあるからです。
そして時代が下りますと、文明の進歩が見られるわけですが、この文明の進歩には、誰しもが恩恵を受けることができるものではありません。しかし、恩恵を受 けたいという欲求自体は膨らむばかりといえましょう。たとえば、3C時代(クーラー、カー、カラーテレビ)と呼ばれる高度成長時代は、それを示すのではな いでしょうか。要は、文明の進歩が見られるということは、文明というのは人を甘えさせるための手段(生活上の利便さをもたらす方法)の開発でもありますか ら、甘えの対象が多様になってくるということですね。
甘えの対象が多様になってきますと、甘えたくても甘えられない(手に入れたくても入れられない)人たちも出てきます。もちろん、甘えることができる(手に 入れることができる)人たちも出てきます。甘えられない人達は、甘えられる人たちの集団からはみ出てしまい、所属・愛情欲求の充足に支障をきたします。す ると、安全欲求の充足に不満を抱えつつ所属・愛情欲求の不満が芽生えるわけですから、ここに、充足されない安全欲求が代理欲求としての所属・愛情欲求が現 れることになります。つまりは『越行』ですね。越行状態は、越行を起こす原因となっている会欲求が充足されるまでは延々と続くという性質を持っています。 このことはつまり、フロムが指摘した「所有という欲望には限界が無い」ということですし、これは満足感(充足による至高体験)を伴いませんので、いわゆる 幸福感が訪れることは無いといえます。これもフロムが指摘したことですね。
こんなことを考えていると、不思議なことに(いつも何か情報にめぐり合うことができる)ネットサーフィンをしていますと、東亜日報電子版(韓国の新聞の日本語電子版)に、似たような記事がありました。その記事に、
-----引用開始-----
◆19日付のウォール・ストリート・ジャーナルのブログも、約50の投資諮問会社を管理する40代の億万長者が、「裕福に
なってみると、所有にもはや興味を失った」と言い、高級マンションと車を売って、ホテルで「ホームレス(homeless)」暮しをしていると紹介した。
彼は、全財産を社会に寄付する計画だという。フロム式の表現を借りれば、「所有指向から存在指向へ」転換した新人類だ。彼らには、寄付行為においても社会
的負債意識がなく、ただクール(cool)に見える。
-----引用終了-----
相当な裕福になると、生理的欲求も充足が補償され、安全欲求もしかり、所属・愛情欲求も金銭で解決可能なものはしかり、承認欲求、自己実現欲求もしかり、 ということになるのだろうと思われます(なったことがないので分りませんから想像で書いているだけです(笑))。それでも精一杯の思考実験を繰り返します と、本人が自己受容を果たしているかどうかで、様相がだいぶ異なってくるといえるのではないかということが分りました。
自己受容が果たされていますと、特に何を求めるということはなくなることでしょう。それが上記の引用子が示している例ではないでしょうか。自己受容が果た されていませんと、第三者から見ればどんなに裕福になっても、更なる前進を求めてがむしゃらに前進するのではないでしょうか。
まだまだいろんなことが議論可能かと思うのですが、今回はこの辺でとめておきます。
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