毎日新聞は、英語版で大変な問題を起こしています(笑)。本当は笑い事ではないのですが・・・対応があまりにもばかげているから笑わざるを得ないという か・・・。それはともかく、イタリアの大聖堂で岐阜女子短大や京都産業大の学生達が訪欧記念の落書きをしたことは皆さん既に御存じだと思います。このこと について考えてみましょう。
まずは、毎日新聞が報じるところに寄れば、
【引用開始】
落書き:伊紙「あり得ない」 日本の厳罰処分に
【ローマ藤原章生】「教員、大聖堂に落書きで解任の危機」--。イタリア・フィレンツェの大聖堂に落書きをした日本人が、日本国内で停学や務めて いた野球部監督の解任など厳しい処分を受けていることに対し、イタリアでは「わが国ではあり得ない厳罰」との驚きが広がっている。
イタリアの新聞各紙は1日、1面でカラー写真などを使い一斉に報道。メッサジェロ紙は「集団責任を重んじる日本社会の『げんこつ』はあまりに硬く、若い学生も容赦しなかった」と報じる。
フィレンツェに限らず、イタリアでは古代遺跡はスプレーにまみれ、アルプスの山々には石を組んだ文字があふれる。その大半がイタリア人によるものだ。同 紙は「日本のメディアによる騒ぎは過剰だ」と、日本人の措置の厳しさに疑問を投げ掛けた。コリエレ・デラ・セラ紙も「行為はひどいが、解任や停学はやり過 ぎ」と論評した。
一方でレプブリカ紙によると、大聖堂の技術責任者、ビアンキーニ氏は「日本の出来事は、落書きが合法と思っているイタリア人にはいい教訓だ」と語った。
毎日新聞 2008年7月1日 22時11分(最終更新 7月2日 8時22分)
【引用終了】
この報道を読んで、考えさせられてしまいました。岐阜女子短や京産大の関係者の処分は、僕としては「当たり前かな?」とも思っていたのです。そうでもないようで、今、心の中で何かが蠢いています。可能な限り言語化してみたいと思います。
仮に500年、1000年後の人類が(もしいれば)、大聖堂の日本人の落書きを見たらなんと思うでしょうか。けっ、馬鹿な祖先め、恥を知らんかいっ!など といって怒るでしょうか? そんなことを考えると、僕の場合には、へー、当時の日本人もここを訪れたのか!学生が遊びに来るくらいゆとりがあるのだな!と いったことを思うような気がするのです。世の中には色々な落書きがありますが、ひとつの文化のような気がしてなりません。後世、総を剥してみたら、落書き が現れ、それを落としてみたら、真っ白になったが、それを剥してみたら、また落書きが現れた、・・・、人間の活動を後世の人も面白く理解するのではないで しょうか(^^;
落書きに対する日本人の考え方とイタリア人の考え方(欧米人に一般化してよいのかどうか分らない)の違いは、下記のような点で興味深いものがあります。
日本人の感覚としては、自然や遺跡といったものは、八百万の神々の意味での「神」が宿る神聖な地と考え、あまり手を加えるようなことをしないのが普通で しょう。ところが欧米では、一神教が支配的な現在、自然や遺跡に対しては、そのような心意はないものと言えるのではないでしょうか。
あるいは、こうも言えないでしょうか。
イタリアを初めとした欧米は、歴史的にはローマ帝国です。ローマ帝国の教えは、キリスト教ではなく、日本と同様のアニミズム、シャマニズムだったわけです (シャマニズムのほうは自信がないのがホンね(笑))。ですから、キリスト教のような好戦的、支配なものはなく、戦った相手を許し、文化を尊重し、といっ た方針だったようです。このような大自然を神とする考え方も気質として、イタリア人の中にもあるのではないかということが考えられます。
もしあるとすれば、次のようなことも考えられます。
地球的視野というか宇宙的視野というか、そんなレベルから見れば人間も所詮地球の寄生虫みたいなものです(笑)。その活動のひとつである落書きも、寄生虫 の(知的)ウンコのようなものです。こういったウンコをするなとかなんだとかいっても、目クソが鼻クソを笑うようなもので、なんら関係ないといったよう な、大様な気持ちになるのではないでしょうか。イタリア人が「厳罰が過ぎる、とか、騒ぎが過剰だ!」と感じる部分にはそんなところがあるように思えます。 これが本来のアニミズムではないかと思われます。
ところが日本の場合、神道という宗教がアニミズムを取り込んでいます。アニミズムの中では、生けとし生けるものすべてが神々であるわけですが、
神=その存在なしには人類が生存できないほどに絶大な影響力を有する生物もしくは非生物
(まぶい分析学における神の定義)
という点からすれば、すべてではなく、神と呼べるものはある程度限定されてくるわけです。祖先祭祀システムにおいては、そのような影響力を有するものはす べて神ですが、神道となると、悪い影響力の場合には穢れとなってしまいます。そしてそれを「祓う」ということを行います。このような感覚がありますと、 「穢す」ことを忌み嫌うようになりますから、日本人の感覚としては、処罰は受け入れられるものといって良いかと思われます。
ところで、この「穢す」ですが、穢すと感じるのは人間ですから、しかも、管理者側の人間の立場で考えてみますと・・・。大聖堂というかイタリア人の感覚で は、「穢された」とは思わない、もしくは思っていても「それほど重篤な思いではない」ということになり、日本人としては、「日本人としての自分が恥ずかし くなるほどに強く思う」ということには、甘えの心理の違いも強く作用しているかと思われます。
「甘え」というのは、相手との心理的一体化ということができます。例えば、「おい、あれをとってくれ」という「甘え」は、相手の手を自分の手のように使う、つまり相手と一体化している状態ですね(^^。
この落書きの例からすれば、日本人は相手との一体化がイタリア人よりもより大きい、ということになるわけです。
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