今年もまた慰霊の日がやってくる。
慰霊の日というのは、
・・・引用開始・・・
慰霊の日(いれいのひ)は、1945年6月23日に沖縄戦の組織的戦闘が終結したことにちなんで、琉球政府及び沖縄県が定めた記念日である。復帰前は、住 民の祝祭日に関する立法(1961年立法第85号)に基づく公休日とされ、現在でも沖縄県内では公休日である(ただし地方限定の公休日であるため、当該日 が日曜日にあたっても翌日が振替休日にはならないが、過去には学校などによって翌日も休日になることもあった)。そのため国の機関や国立大学(琉球大学) 以外の役所・学校等は休日となる。毎年この日には糸満市摩文仁の平和祈念公園で沖縄全戦没者慰霊祭が行なわれる。
・・・引用終了・・・
というものだ。
沖縄戦は壮絶な地上戦であったということで、また、平和の尊さをということで、色々な平和運動・・・、戦争の恐ろしさ、惨たらしさ、基地要らない運動など が盛り上がる時期が来た。しかし、今年は、ちょっと様子が異なったものとなるのではないだろうか?そんな時期(と思われる)日なんで、戦争の悲惨さを訴え る平和運動などを心理的な面から短考してみたい。
戦争は国家間の喧嘩であるが、この喧嘩は、結果が悲惨だから、こんなことをしてはいけない、やめるべきだ、非人道的だ、・・・、とありとあらゆることが指 摘され、そして戦争の悲惨さ、平和の大切さを語り継ごう、ということになっている。一種、パターン化されているといっても良いだろう。
しかし、この手の運動を見るとき、当事者の意に反して、それはむしろ逆効果ではないか?!と思わされてしまうことが多いのだ。国家間の喧嘩は、相手に自分の主張を有無を言わさず飲み込ませようとするものだ。だから、相手が最も嫌なことをしてやるぞ!と脅しをかけるものだ。
それが嫌なものであればあるほど、対立が生じたときの具となるわけだ。したがって、平和運動が盛んになればなるほど、実は、平和運動をしないといけないよ うな、種々の対立点が潜在的に活動している証拠になるのではないか。分りやすい例で言えば、交通安全キャンペーンを張るということは、その地域の交通が安 全だからということではなく、交通の安全が脅かされているからなのだ。
さらに、このような対立は相手があってはじめてのことなので、自分だけが平和を決め込んでも致し方がないということがある。自分の主義主張を通そうとする のならば、それが「平和」という主張であっても、相手の主義を曲げて、あるいは抑え込んでしまえるような「力」が必要になってくるのではないか?
歴史を見れば、平和のために人は戦い、という矛盾じみたことを行っている。
仮に、僕が慰霊塔に祭られている存在とし、平和団体が「もう戦争はいたしません」とか「軍隊は・・・」といった誓い、祈りを聞いたとすれば、「おい、独りよがりはやめろ!」と言いたくなり安心できない。つまり慰霊にならない。
慰霊とは、死んだ人の霊を慰めること、であるけれども、本当に慰めることなんてできるのか?
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